自己有用感~存在価値~

人は有用であるか有能であるかということはとても大事な価値観であろうと思います。特に今の時代は自信を失っている人が多く、自己有用感を持てないという人が増えているようです。これは一言でいえば、自分が役に立っている実感が自分自身で持てないということです。

ではなぜこうなってしまうのでしょうか、そこには西洋文明の影響を強く受けた今の日本社會の価値観が関係しているように思えます。

人は誰かによって価値を定められ評価されているものです。それは自分を含めて、集団であったり国家であったり、自分の所属する場所に置いて自分自身の価値が判別されていくものです。本来、人は存在価値という価値があるのですが、能力価値だけをみるならば能力がない=不必要という解答になってしまうように思います。これは人や物が溢れてくると、あらゆるものを粗末にするようになり物質的豊かさの陰にある心の貧しさが広がっているからかもしれません。または信じるよりも疑う方が楽だと信じる努力を止めてしまうから自己防衛のために先に自ら評価を入れては勝手に自分の価値を自分で決め込んでしまい、自分の価値はこんなものだと先に裁いてしまうのかもしれません。どちらにしても何らかの理由で心を閉ざしているのです。

本来、価値というものは存在しているだけで価値があるものです。何かしら意味があって産まれてきたし、何かしらの価値は必ずあるのが自然界です。その価値を誰かの都合で一つの価値基準に合わせさせようとすればその基準に合えば有能であり、合わなければ無能というのでは誰でも自信を持つことができなくなるように思うのです。

人が自信を持つというのは、何かしら自分の価値を自らが認めているということです。言い換えれば自分の存在は必ず誰かの役に立っているという実感があるということです。それは決して何かしたから役に立ったのではなく、存在しているから役に立っているのだという実感です。

人は自己認識というものを他の人を通して行うものです。善い仲間がいれば、その仲間の中で自分が存在していいという実感があることで自分は必要とされていると感じることができます。そのためには自分から心を開いて仲間と本心を通じ合わせて、自分自身が周りを必要としていることを自らが発信していくことのように思います。

今の時代はなんでも一人で完璧にできる人を目指させる傾向が強くあります。完璧主義の刷り込みを持った人たちはたくさんいます。しかしもしも全ての事が一人で全部できるのならば他の人は要らないということになれば人類の人類たる由縁を忘れてしまいます。いくら便利な世の中になってもどんな人間も倖せになりたいのが本来の姿ですから、一見メンドクサイと思っても敢えて周りの人たちと仕事を分担してみる、一見自分でやった方が早いしミスがないからと思っても敢えて一緒にやってみる。そんな中ではじめて「楽しい」という体験ができ、その楽しい体験を通して自分が有用であることに気づくのです。

結局は自己有用感とは、誰かと一緒に働くことで得られる「楽しい」感情のことです。自分の価値観の中で有能さがある人は、能力だけで判断して役に立つかどうかを決めつけて結果を邪魔しないために具体的にかかわることを避けようとします。しかし、何もできなくても一緒にやっているのなら後ろからエールを送るだけでも、もしくは思いやり心配して励ますだけでもそれは一人の人間として十分に役に立っているのです。

自分の中の刷り込みを取り除くのは今までの自分の評価や価値基準を脱却するほどに大変なことですが、その先にある倖せな仲間との邂逅であったり、人と一緒にいることの愉快さ安心さを味わえたりを思えばブレークスルーしようと挑戦することの価値を感じます。結局は有用も有能もそれは人との絆や結びつき、真心によってはじめて活かされるものなのです。

そのための第一歩として自分が本当は何ができるのかを親切に教えてくださるのは周りの仲間たちです。自分で決めつける前に仲間に聴いて、自分の何を必要としているのかを心を自分から先に開いて素直に受け止め本人が自分からそのままでいいと感じ進んで殻を毀していけるように心の見守りを強めていきたいと思います。

  1. コメント

    一般的な「価値」はモノサシによって変わりますが、「存在価値」には、モノサシは不要です。それを、他人の評価基準や自分の劣等感というモノサシで測ろうとするところに、勘違いが生じるのでしょう。また、「一人前思想」は、本来は一定の水準以上への成長を認め、仲間として祝福しあう考え方ですが、いつの間にか「一人でできる」能力のように誤解されています。特定のモノサシによる評価を気にしている間は、仕事を楽しむことはできません。「楽しい」ということのなかにこそいろんな価値が含まれており、「総合基準」になり得るのではないでしょうか。

  2. コメント

    中学頃からよく、自分とは何なのだろうと考えることがありました。今でも時々思うことがありますが、以前とはまた違う感覚があります。同じ自分で考えることは同じでも、異なりを意識理解しはじめたのは大きな変化かもしれません。とはいえ、頭では理解していても言動がまだまだ伴わず、頭も心もオーバーヒートしそうなこともありますが、教えて頂いていることを受け止め、次へ繋げていきたいと思います。【○】

  3. コメント

    一円対話の「隣の人のいいところ」で、誉めてもらうたびに存在自体を認めてもらえている感覚を得ることが出来ます。わかってもらえている、必要とされているという安心感。それはとても幸せなことで、自分もまた相手にそのように感じてもらえるような働きかけをしていきたいと思いますが、、エールを送るということを考えた時、確かに祈りや励まし自体にも意味はあるとは思いますが、そこに心の寄り添いがなければ真価は発揮されないように思えます。逆を言えば、相手のことをよく観て、相手の言葉をよく聴いて、相手の心をよく感じることが出来ない環境下で、ただ相手にエールを送ろうと思っても、自分なら「言葉が先行していないか」「そこに信は入っているか」と自分で疑心を抱いてしまうかもしれません。それを思うと、一緒に働き合えるということ自体がとても有難いことだと感じますし、条件や環境に左右されてはじかれてしまう人が出ないよう、この「一緒に」のカタチをもっと工夫していかなければならないことを感じます。

  4. コメント

    相手のあるがままを受け入れ、自分の価値観ではなく共感している状態の時の眼差しや会話、関係は相手にとってではなく、自分が活かされている、自分もこのままの自分で良いのだと感じる機会となっています。相手があり、異なりがあるからこその一円観であり、その一円観を通じて見えてくる自分らしさや福の眼差しを大切にして行きたいと思います。

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