昨年から巨樹老樹の実生を育てている中で色々なことに気づき直しています。
ドングリやコナラなどの樹は成長が速く、すぐに種をつけますし短いサイクルでいのちをめぐります。それとは異なり、私が今見守り育てているのは銀杏や蘇鉄、榧など寿命の長いゆっくり育つものばかりです。
生長の速いものはなんでも速く変化がありますが寿命は短く、生長のゆっくりのものは変化もゆるやかですが寿命は長くなります。
これは生長変化の理でもあり、樹木に限らず人の生長についても同じように思います。どれくらいの寿命で生きようとするか、それは志にもいえることで一代の野心のみで生きる人の生長と変化と、何代もかけてつなぐような夢で生きる人たちの生長と変化ではその役割もまた異なるように思います。
特に今の時代は、効率優先、競争社会、大量生産、大量消費、簡単便利で快適でスピーディを価値観にしている時代です。短期間で評価されないものは捨てられるようにできていますから、当然、生長も一気に一斉に短期間で行うことが良いという価値観が蔓延しています。
ふと気づけば、自分の寿命よりもずっと長生きしてしまうこの目の前の幼い樹木をみていたら如何に後世を託す人たちにつなげばいいかばかりが思い廻ります。
時間をかけてもいいという贅沢さや、ゆっくり変わっていけばいいという豊かさ、自分なりの生長でいいという優しさや、一生懸命に誠実に生きていけばいいという美しさ、本来の”ゆとり”というものは慎ましく謙虚に自分らしく生きている自然の姿のことです。
何千年もこの先に生きていくであろう幼い樹木を見守りながら私たちも同時にこの樹木たちと一緒にこの先、子孫が何千年も生きるつもりであろうかと内省するのです。
今の生き方を否定する気はありませんが、やはりそれだけではいけないと感じる日々です。人類の冒険はまだはじまったばかりです、この難局をどのように乗り越えて新しい人類の夢を実現していくか。
人生は一つのミラクルジャーニーです。
私たちのミッションもまたその中にあるように思います。
私自身、かんながらの道を辿りつつ、人類の夢を追い求めていきたいと思います。
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大人になっても夢を語れる、それは美しいことなのだと感じます。やりたいことがあって、実現したいことがあって、そんな場所や人を求め探しているのだと感じたとき、自分がいかに恵まれているかを知りました。今自分があるのは自分だけの力ではなく、多くの仲間に支えられ励まされてのことであって、もし一人だったら今と同じようにあるかと思うと、きっとそれとは別なのだと思います。今出来ているかどうかよりも、やりたいと思うその気持ちに寄り添うことが尊いのであって、誰かの言葉からでなくそう思う自分から感じました。同じ冒険なら、夢を語り夢を応援するそんな冒険をしていきたいと思います。【●】
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人間社会では、「コストを下げること」と「スピードを上げること」が至上命令のようになっています。確かに、すべての人を物的に豊かにしていくためには、必要な方向ではあります。しかし、そのせいか、すべてが「短期思考」になっていることに大きな不安を感じます。企業の決算は三年に一度くらいでいいという意見がある一方で、多くの企業が四半期決算を求められていますが、これでは、未来を見据えた経営は難しいのではないでしょうか。「余計なことをしない」という意味の無駄は省かねばなりませんが、「必要なことを飛ばしてまでスピードを求めること」は疑問です。「かけるべき必要な時間」を見誤らない智慧を持っておきたいと思います。
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「人間」と一言で言っても一人ひとり全く違うのだと思うと、子どもたちには違いが認め合える世の中であってくれることを願いますが、いざ自分はどうかと考えると、一つの価値観に拘り他を認めようとしない一面があるのかもしれません。子どもにとってどうか、という物差しで考えていきたいと思います。
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自分の命よりも長いスパンで生きる生き物と触れることは自然の摂理や時間軸に触れることのように感じます。自分都合や人間社会のスピードだけではなく、大きな時間軸と触れることは、何か自分の枠を外してくれたり初心に帰れる取組なんだと感じます。ただ、自分自身、今身近にそういった長い時間軸を持った環境を用意していません。何のために用意するのか、なぜ実践するのか。その初心から考えて行動に移していきたいと思います。