人は物事をどれだけ長い目で観るかで物事の視方が変わっていきます。
自然はとても長いときを生きていて、自分だけの人生などを考えている暇がありません。何万年も何千万年も変化を已まずこの地球で生きることを許されているということを味わい楽しんでいるかのようです。
全ての「いのち」には自立というものがあります。
例えば、親子がいて幼い頃は守られますがある時期からは自分でやることを促され自立していきます。猿であろうが犬であろうが、鳥であろうが親が子に対してある時期を境にそれまで分けていた食べ物を一切分けない姿をみかけます。
ここに一つの気づきがあります。
長い目でみたら親は必ず先に死んでいきます。死んだら子どもは自分で生きていかなければなりません。見た目には親が子を突き放し大変厳しいように見えても実際は深い慈愛から行っているものです。その時に生きて往けず死んでしまう子どもがいて可哀想だと思いますが、長い目でみたらそれを乗り越えていかなければ先々にもっと辛いことが起きることを知っているのです。長い目でみるとそれは甘やかしているのかどうかは一目瞭然です。自然の親子は長い目で観て善くないことは絶対に善くないとして厳慈に透徹するのです。真の愛情というものは、狭い視野た短慮では理解できず長い目で深慮するときにこそ実感するものだと私は思います。彼ら自然の親子の愛情は少しも変わらず「いのち一切の愛」を丸ごと与え続けて悔いはありません。
自然というものは偉大な長い時間を長い目で考えて活動しています。
今の時代の私たちはとかく短い時間の短い目で物事を考えてしまいます。全ての中心に自分を置いてしまえば、視野も狭くなり余計に目先の問題だけに終始してしまうのでしょう。今は生き方の実践というものをあまり優先されなくなったのでしょうが、昔の生き方を守っているインディアンや少数民族たち、古老たちが語る言葉には何代も廻ることを優先させる文化があります。
自然は悠久の時をもっています。
その悠久の時に自分を合わせるとき、長い視野の実践が如何に自然の智慧そのものであることを自覚するのでしょう。情報化社会のスピード重視の変化の中で、長い目でなど死語になりつつありますが本来の視点は「いのち」や「生き方」にあることを子どもたちのためにも私たち大人が忘れてはいけない視点であると思います。
刷り込みに負けない胆力、刷り込みに流されない信念、そういうものを長い目を通して培っていきたいと思います。ここまで「いのち」をつないでくださった方々たちのご縁があって今の私が存在できているという真実は決して忘れてはならないと思います。
子ども達のためにも長い目で見守っていきたいと思います。
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「洋紙は100年、和紙は1000年」こんな言葉があるそうです。これは紙の耐久性を現し100年でも驚かされますが、今から1000年後はどんな世界があるのか想像もつきません。ただ、脈々と技術が継承され今こうして触れられることを誇りに感じます。日常の中にあまりにと溶け込み当たり前になっている紙も、体験してみると刷り込みがあることに気がつきます。体験を通しての学びは大きく、そして求めているのは成果物でないことを改めて感じます。長い目=「未来」「先を見通す」と思っている節がありましたが、必ずしもそうではないとも感じています。歴史文化を学ぶ意義深さはここにあるのかもしれません。この一つひとつの機会を大事にしていきたいと思います。【○】
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人は、「自分の財布で経済を測る」と言われます。同じように、「自分の生活で社会を評価し、自分の寿命で歴史を観ている」のかもしれません。また、未来のために今日が譲れないのは、「現在の痛みや苦しみを通して未来を眺めている」からでしょう。「モノサシ」が「いまの自分」にある限り、真実は測れません。30センチのモノサシで空の広さを測ろうとしていないか?!人間の都合で天意を測ろうとしていないか?!「モノサシ」自体を見直す必要があるようです。
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短い視野で観ていれば変化も分かりやすく自分も安心できますが、それは一喜一憂であり本来の安心とは違うのだと思います。それも頭では分かっていても直ぐに意識が離れてしまう現実の中にいるからこそ、立ち返ることの出来る実践が必要なことを感じます。巨樹を見て、そこに何を観るのか?自分の観えている以上の世界があることを認識することから始めていきたいと思います。
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長野の実家でお義父さんのお話を聞いてみると、先祖の代からずっと、同じ土地に家を建て続けてきたそうです。どうやって立てていたのかをお聞きすると、式年遷宮と同じく、右に新居を立てれば、次は左の土地にという風に、交互に立てて住んできたそうです。次の代の事を考えて生きていく分だけの食料は自分たちでと言う事で田んぼと畑を今も持ち続け耕し続けています。言葉を聴けば当たり前のようにも思いますが、自分にはその当たり前を実践できていないことに気づきます。形にこだわる必要はないとは思いますが、その長い目で見るまなざしは持たないといけないと感じます。自分の為に生きるのではなく次の代、もっと先を見て生きる生き方を、学んでいきたいと思います。