生きていると様々なことが発生します。以前、人生には三つの坂があるという話を聴いたことがあります。一つ目は登り坂、二つ目は下り坂、そして三つ目がまさかの坂という坂があるそうです。人生は登り下りだけではなく、まさかといった予想していなかった出来事に遭遇するという話です。
よくよく振り返ってみると、計画通りにいくことなどはほとんどなく、いつもまさかこんなことがという出来事に出会います。それは人の出会いでも、学びの出会いでも、仕合せとの出会いなどもそうです。
私たちは気づいていないだけで、人知れず多くの御蔭様の助けによって日々を生き抜いていくことができます。御蔭様御蔭様でと御蔭様を唱えて生きる人には、どんな時も見守ってくださっている存在に気づき自然とそのまさかの有難さに気づけて感謝を忘れません。しかし自分の思い通りに行くことばかりをのぞんで得手勝手にふるまってしまう人にはそのまさかは予想外の出来事に映るのかもしれません。
そもそも当たり前ですが坂道というものを登ることも下ることができるのも自分の”からだ”があってのことです。その”からだ”は、数々の恩恵をもって与えてくださった唯一無二のものです。その自分が恩恵に活かされているからこそ体験もでき、死んでしまってはその体験すらもできません。この生きている、活かされているという存在そのものへの感謝があってこの世で様々な体験をさせていただけることが御蔭様のちからの一つであろうと思います。
そして人はその体験をしたいからこそ坂道を歩みます。いくら大切な人であっても、その人が体験したいものを代わってあげられることもなく、その人が乗り越えようと必死にしているものをやってあげられることもなく、ただ自分にできるのはその人のことを丸ごと信じて見守ることだけです。
この「見守ることだけ」という心境は、御蔭様の存在の心に似ている気がするのです。
私たちはこの世で好きな体験を自由にさせていただけます。その自由にさせていただける私たちは地球にとっては子どもたちのようなものです。その子どもたちはいかに生きて体験していくのかは母なる地球が見守ってくださっています。地球がなくなれば私たちも好きなことができず、父なる宇宙の見守りがなければ私たちは存在すらできません。まさに「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」です。
如何なる坂道であったとしても、天から与えていただいている尊い坂道。御蔭様御蔭様と唱えながら歩んでいきたいと思います。当たり前ではない環境があって、悩むこともできるという有難さ、思い通りではない有難い御蔭様に感謝してもったいない学びを味わっていきたいと思います。
全ての出来事には確かな意味がありますから、その御蔭様と人と人との出会いと別れにある御互い様を忘れずに初心を守っていきたいと思います。
コメント
「思い通りにいかないこと」を不幸と考えると、「まさか」は危機に見えるでしょう。確かに、「まさかは、慢心への戒めである」ことも多いですが、それすらも、「気づかせてもらうための配慮である」と感謝することもできます。この「思い通りにいかないこと」に新たな可能性と無限の豊かさを感じる瞬間は、「見守られている」ことを強く感じます。「食べること」を誰かに代わってもらうわけにはいかないように、日々の「まさか」を自分でしっかり味わい、自分の人生の血肉に変えていきたいと思います。
コメント
先日ある方が「家族・友人から見守られていることを感じ、見守るとは何かを考えられる」と言った話をされました。見守ろう、見守ろうだけでなく見守られている、そのことに気付かなければ見守れないのだと感じます。思いが一方通行になっていないか見直したいと思います。
コメント
磨いているのか、汚しているのか、時折わからなくなることがあります。観えるものに固執していては御蔭様という言葉を発しても、それは頭で考え自分に思い込ませるという空しい作業に過ぎません。仏壇に手を合わせること一つでも、子どもにとってとても大切な環境であることを感じます。
コメント
父親保育を通じて、先生方に見守られ、環境に見守られ、お父さん達に見守られ、子ども達にも見守られ、、と本当にまさかまさかの一日でしたが、お蔭様でとても楽しい一日を過ごさせて頂きました。どんな坂も、受け身でいれば福にはならず、自ら飛び込んだり、オープンでいれば、そんな「まさか」も善い意味に切り替わっていくのだと感じます。来週末は地域の小学校の説明会がありますが、どんな「まさか」に出会えるのか。主体的に楽しんでいきたいと思います。