昨日はプノンペン郊外にあるNGOが支援する保育園と草木染の作業場を視察することができました。保育園では寄付やボランティアの力をかりて、様々な遊具や本、または資金を集め共働きの村の子ども達を集めて保育を行っていました。また草木染では、藍染めを中心に現地の伝統工芸に新しい技術を加味して高品質で高級な反物をつくり都会で外国の人たちに直接販売をしていました。
NGOの役目も、段階段階で変わっていくように思いますしまた現地の人たちの生き方もまた自分たちで選んでいくように思います。権力やお金が生み出すあらゆる差別と画一というものは、グローバリゼーションと共に世界に拡散しています。その中で人は人間本来の自由を急速に失っていきますから、世界の在り様を直視していかなければなりません。今回はそういう意味でも国を問わず場所も問わず、改めて人間教育の本質とその意義を考え直す善い機会になりました。
どちらにしても激動の経済変化の波の中で、少し都会から外れただけでかつての懐かしい田舎の暮らしがそこにあります。面白いことに激動の変化のスピード感溢れる都市部に比べ、まるで穏かで平和な農村部のスローな暮らしがありました。
都会では道路が拡張し建物も増え、車やバイク、あらゆる店が新装開店中です。同時に田舎ではハンモックに揺られ、木蔭で孫たちの世話をするお年寄りが楽しそうに家事を勤しんでいます。周りには鶏やアヒル、犬や猫、牛やヤギなど家畜も放し飼いです。
そういえば、昔は貝を拾いその貝を装飾し御守りにして大切な人に贈り合い、それを大事に身に着けていた時代があるといいます。
時代が変わって捨てるものもあれば、拾うものもある。
人々が捨てていくものを敢えて拾っていく人がいるからこそこの世の中は面白いように思うのです。多様性や柔軟性というものは、自然が平等に生き物たちに自由を与えてくださっていることを証明しているように思います。
人間のように一つの基準だけで他を差別し評価し裁くのではなく、あらゆる生き物たちの生き方を尊重して自由に選択することが許されています。
何が自然で何が不自然かは一目瞭然なはずですが、新しい都市化する生き方もまた排除されるものではないと私は思います。だからこそ自分自身がどのような教育を行うか、そしてどのような生き方のモデルを示すのか、子ども達の未来のことを憂慮すれば自ずから本来の在り方に回帰します。
まだ視察ははじまったばかりですが、とても印象に残った風景で締めたいと思います。
カンボジアの農村部では雨期に甕に一年中の雨水を貯めてそれを上手に活用します。甕の中には身体を洗う水や、飲用に使うもの、様々ありますがその中に一匹の蟹が入っていました。
この蟹は何のための蟹なのかと質問すると甕の中に発生するボウフラ(蚊の幼虫)を食べてくれるからだとありました。なるほどと手を打つとともに自然に精通しているその人たちの智慧を感じて何を共通して尊重したのかを気づくに至りました。
今日はアンコールワットとアンコールトムを視察します。
この地の感性に触れてみたいと思います。
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街でちらほら機織りをしている姿を見たことがありましたが、藍染めもしているとは知りませんでした。そして、「時代が変わって捨てるものもあれば、拾うものもある。」何か心に沁みるものがあります。田舎の生活にしても思い浮かぶ光景があり、きっと同じものを観ている不思議な感覚があります。何度か訪れていたのは、人間教育の本質は何かを求めていたのかもしれない、そう感じます。
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『代償の法則』というものがあります。「何かを得るためには、何かを捨てなといけない」というものです。進歩、発展というのも、この法則から逃れることはできないのでしょう。「何を選ぶか」「何を取り入れるか」だけではなく、「何を捨ててしまわないか」「何を諦めてしまわないか」「何を尊重し続けるか」というところに、「欲と智慧の勝負」があるのかもしれません。
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今、日本の社会は生き方が単一化されてきていると感じます。様々な生き方が尊重されていた時代から、働くという事一つをとっても、生活という事をとっても、価値観が単一化されていることを香川に来ても、東京にいても同じな事を感じます。また、地方では家から保育園までは車での移動です。まったくと言っていいほど、地域の方との触れ合いはありません。その為、お年寄りの方と若い保護者が同じ地域で権利の主張をしあったりと、対話不足からくる問題が起きていると知りました。都会の方が自転車や徒歩での登園の為に、地域の方やおともだちと様々な方々と触れ合う機会があります。対話という文化が、原風景には必要なのではないかと感じています。
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先日の一円対話で「カルチャーショック」を自由テーマにしてみましたが、大きいものから小さなものまで、そのショックがワクワクするものなのか不快なものなのかの受け取り方の差は大きいように感じます。ソフトの導入研修でも「異文化」についての発達項目について、子どもに対する環境設定の例を説明しますが、その背景に今回のような「尊重」という概念があることを忘れてはならないように感じました。