美化~善いところ探し~

人は物事の捉え方で物事の観え方を変える生き物です。

自分がどのように観るかで対象となるものの見え方が変わってくるからです。私たちは物事を観るとき、足りない方を見るか、足りている方を見るかでその見方が異なります。以前、「コップの水の話」を聴いたことがりますがこれはコップに半分水が入っているとして半分しかないと思うか、半分もあると思うか、もしくは水があって有難いと思うかという物の捉え方の話に似ています。

同じ物を視るのなら「美化」した方がいいと思うのですが、実際には減点法で足りていない方ばかりに目を向けては自分のことも美化できずに苦しんでしまうのです。「美化」を辞書でひくと、「美しくすること、美しく変えること」とあります。自分自身を美化するというのは、自分の善いところを探し、自分の善いところを認めるという努力のことです。

以前、「美化」という言葉を知るとき斎藤ひとりさんが「幸せのデコレーション」というたとえ話をしていたのを聴いたことがあります。これはケーキのデコレーションのように、そのケーキをどう飾ってあげるかで幸せが何倍にもなるという話です。とても素晴らしいたとえ話だと感動したことを覚えています。

そもそも美化するというのは、「善いところを観る」という実践です。そのものの持っている持ち味を見つけたり、そのものを尊敬して徳性を発見したりするものです。

人のいいところを探して褒める人は、それだけで人を美化してその人の優れたところを引き出していきます。よく褒めて育てると言いますが、言い換えればその人を美化して育てているということです。善いところを見つけられるのは、自分の善いところを認めているからです。自分の悪いところばかりみてしまうのは、自分に対しても人に対しても減点法で足りないところばかりを探してしまうからです。

「成功する人くさる人(寺田本家23代目当主寺田啓佐)KKロングセラーズ」の中で美化に関してこういう一文が紹介されています。

「美化って、やっているうちに楽しくなって、意識しなくても、自然と美化できるようになるんだね。ただ、今まで美化をしてこなかった人だと、やりはじめの頃は『自分は、まだ相手の欠点ばかり探しちゃうんだ』とか、『自分はまだ人を冷静に判断して、正しいことしかいえないのか』とか、思ってしまうことがあるの。そんなときは、『美化してこなかった自分が美化を心がけようとしている。成長したじゃないか』とか、自分で自分を美化してね。自分を美化することも大事だよ。できない自分で美化すれば、人一人救ったことになる。なおかつ、たいがいのことは美化できるようになるからね」

最初はなかなか美化できず、悪いところばかりを探してしまうけれどそのうちに人の善いところを観ようとしているうちに自分が変わっていくものです。その間も、自分は善いところを探そう、自分はもっと人を認めていこうと努力しているのだから、以前の自分よりも成長しているじゃないかと自分を褒めていくことが美化そのものになっているということです。

競争社会の中で、様々な人から足りないところばかりを指摘され、標準で平均、常に誰かの評価が入って点数をつけられてきたトラウマはそう簡単には拭いされません。しかし善いところを探そう、美化していこうとすることで自他は認められ自他のいのちはより一層光り輝いていくように思います。

素直になりたい、謙虚になりたいと思っても、その初段になるのも一生かかるものです。子ども達のためにも、足るを知り、善いところを認めるところから精進を続けていきたいと思います。

 

  1. コメント

    「減点法で人を見る」というのは、「裁き心」の一種です。不足を証明するために道具として使うのが「標準」であり「平均」なのでしょう。「裁き心」の背景には、「嫉妬心」があるかもしれません。他を裁くことで、それを浮き袋にして、自分を支えているのでしょう。しかし、「人間関係」は「写し鏡」です。そこに映っているのは、他人ではなく「自分自身の姿」です。裁かなくても機嫌よくいられるよう、精進していきたいと思います。

  2. コメント

    「幸せのデコレーション」とてもいい言葉です。言葉一つで気分を変えてしまうそんな魔法をいつも遣っていることを改めて感じます。先日、「ショートターム」という映画を観ました。どこかパッチアダムスに似た雰囲気を感じ、自分を振り返る機会にもなりました。自分の心が言葉に現れる、そのことを強く意識したと思います。

  3. コメント

    システム開発をしていた頃、設計やプログラムには必ず多量のバグが内在しているものとして、それをいかに叩いて出して完全なものに近付けるか?が焦点でした。そのためレビューでは常にその生産物の粗探しのようになるのですが…、製品を作り上げるにはそれも必要ですが、その意識が知らずのうちに人間にまで及んできていたことに違和感と恐ろしさを感じました。人間は、人が考え作り出した設計やプログラムとは違う。それを同じように見てしまうのは、その根底に不信があるからのように思います。信じて善いところを観る眼差しを高めたいと思います。

  4. コメント

    子どもの喧嘩を見ていても、「思いやりが足らない」「善悪の区別がついていない」とみることも出来ますが、「そんなにものを大事と思えるんだな」「ちゃんと嫌な事を嫌と言えるんだな」とすごいなと思えるところが沢山あります。その子が今何を大切にしようとしているのか、ちゃんとよく見て良く聴いて行きたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です