人間は自分のことが分からなくなるのは、自分のことを気にしているからです。いくら気にしていないと思い込んでいても、自他を分けている時点で自分のことが気になってしまっているものです。
それはまるで空気のように当たり前のものであるし、お腹がすくように当たり前に自分たちの意識に入り込んでいます。この自分というものを間違えることで、人は自分のことが分からなくなるのです。
もっとも身近な自分を気にせずに思いやりの実践ができることが真心です。しかし自分を気にするから真心が発信できずまた自分を気にしてしまったと保身に悩むことがあるものです。
相手を気にするというのは、鏡にして自分が気になっているという事でもあります。自分を気にせずに相手を思いやるのは、自分が相手の立場になって心を寄せて共感している状態になっているものです。
これらの境地に入るには、場数を踏んで自分の真心からの行動を積み重ねていくことで自分を気にしなくてもよくなるようにも思います。このことを思う時、私は宮沢賢治の自戒の文章「雨ニモマケズ」を思い出します。
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
・・・
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
目指している自分の姿が、自分を超越しているところにあることは行間から感じます。私がなりたいものも、真心の自分です。しかし簡単にはいかず、優しさと強さを発揮できる至誠を盡したかどうかはいつも天に尋ねて内省する日々です。
真心の生き方というのは、自分を気にしなくてもよくなるということなのでしょう。世間では自分を知るために自分探しとか、自己実現とか言葉だけが先行して流行っているようですが人間ですから実際に誰かの役に立つ幸せや働き成長できる仕合せが生きる歓びであり自分という意味を自覚できる道なのでしょう。
もしも誰もが常に真心を盡すことができるのならば自ずから自分のことを自明し、世界では自分の御役目を自覚できてきて世界の中に一人自分が在る倖せに感謝することができるように思います。自分を磨くということは、自分を忘れてしまうということです。無我ともいうし没頭ともいいますが、その境地までいってはじめて真心や見守り合いもまた顕現してくるように私は思います。どう身近な自然の持ち味を活かしていくか、私たちの挑戦はそこに集約されています。
道は無窮、縁ある限り自分磨きは一生涯続いていきます。
雨も風をも丸ごと福にして自然の通り道を愉快痛快に歩んでいきたいと思います。
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毎月頂く讃給から自分の知らない自分に出会います。これまでのパターンから自分を推測することは出来ても、直近の1ヶ月は周囲がどう感じ・どう思ったかは教えてもらわなければきっと気付けないことだと感じます。これまでの自分にこれからも合わせるよりも、ありたい方へ向かっていきたいと思います。
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「気にする」ということ自体が、とても不自然です。そういう意味では、「気にしない」というのもおかしく、「気にならない」というのが、もっとも素直な状態なのかもしれません。「気にする」ということは「気になる」ことであり、「心が、本来の位置に収まっていない」ということでしょう。自分を守り、自分を支えるのに必死で、緊張している状態では、中途半端な自己しか発揮できません。「心がここに有るか?!」それを常に確認しておきたいと思います。
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自分の欲を捨てるということが、どうも自分の生き方を窮屈にすることや、自分らしさを捨てることのように思いたくなってしまうのは、やっぱり捨てたくないという欲から来るのだと感じました。しかし、保育と同じく、「何が子ども達のモデルになるのか。」「どういった生き方を残していきたいのか」と問う事で、忘己利他の想いと、その先にある世界を信じる気持ちが湧いてきます。新しい世界を歩む信念を胸に、まずは102日目を歩みたいと思います。
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一日の中で朗報もあれば逆に心配になる知らせもあったり、生き方がブレていることを実感したり、関係の近い相手だと余計に自他が気になったりと、心が一つにおさまっている状態には程遠いことを感じます。道は高し美し約なり近なりと言いますが、まずは目の前の一つひとつに心を入れていきたいと思います。