人はチームを考える際に、信不信というものがあるように思います。
そもそも信じている人の組み合わせと、そもそも疑っている人の組み合わせはそのでき上がった関係もまた異なっているのです。これは縁起でもそうですが、常に善因を結んでいく人は善果が得られ、悪因を結んでいくものは悪因を得ます。好循環も悪循環も、その根本にあるのは自らの心ということです。
この自らの心が信であるならば、一つのご縁でもその人の善いところを発見しその人のもっともすばらしいところを尊敬してご縁を結べます。しかし心が不信であるのなら、その人を疑い、その人のマイナスな一面を見て警戒したりしては縁を結べません。如何に自分が先に信じているかは、その後の関係に影響するのです。
先ほどのチームでいえば、不信というものを大前提に心に抱いていると能力だけを補う組織を目指すものです。つまり能力を使い合うためにいるわけだから、能力が足りないところだけを補い合うことでチームをつくるのです。しかし、信を大前提に心に抱いているチームになると、助け合うために一緒にいるのだから御互いの持ち味を活かしあう関係で仲間をつくるのです。
仕合わせな組み合わせというものは、相乗効果があるものです。それは能力の足し算ではなく、一緒にいる掛け算のようなものです。仕事だからと、それぞれが能力だけ合わせて済まそうとするのではなく、家族や仲間が大変だからとその時々で持ち味を活かし合おうとするのです。
この「持ち味が活かせる」という環境というのは、御互いに信が結べ大きな見守りの安心の中で助け合うことを優先するから居心地がよくなっていきます。心が安心した中で何かができるというのは、それだけ自分のもっているちからをすべて出し切ることができお役に立つことができます。逆に心が不安の中でいると、それだけ自分を出し切ることもできずまたお役に立ちにくくなってしまいます。
自分の心の置き所をどうするか、チームの一員として自分が何を優先するかが問われるのです。善いチームになるには、まず信じることが必要です。その信じるというのは、自分の持ち味を活かしてもらえるという安心感、そして自分も周りの持ち味を活かそうとする一体感が要ります。
一体感が持てるのなら、もうそれは役に立つ関係が築けているということです。自分の中にある心はどれだけ一緒一体感を持っているか、その内省と実践による学び、つまり素直と謙虚こそが自分を全体のために役に立て、働く仕合せを実感するための最大のコツだと私は思います。
人は誰かと一緒にやっているとき、その心は一つになります。
その一心同体感であることが本来の和の精神であり、祖親から譲り受けた唯一無二の徳宝です。この徳宝をどう引き出していくか、そして持ち味を活かすか、子ども達の未来のためにもまだまだ実践を積み深めていきたいと思います。
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「人間関係は、『信』によって成り立ち、『疑』によって滅ぶ」と言われます。これは、「『疑』が入った瞬間に、人間関係が崩れる」ということでもあります。そう考えると、「不信のある関係」というものは、そもそも「関係」として成り立っていないということでしょう。また、『信』とは「無条件で受け入れる」ということです。「受け入れ」てみて、初めて見えてくるものがあります。「現象」を見て信じるのは、本当の『信』ではありません。自他の持ち味が見えていないなら、まだ、どこかに『疑』が残っているのかもしれません。「信じるから見える世界」を信じていたいと思います。
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CMか何かで口癖でいつも「すみません」。と言っている人がいました。それを「ありがとう」言うといったものを以前観ました。気を遣い合うよりも遥かに前向きで一瞬で解決してしまう雰囲気を感じます。ありがとうは言っても言われても嬉しい、そんな言葉だとふと感じました。
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物事との付き合い方も信がなければ、主体は発揮されず結果ばかりを見て過程を大切にしないことになるように思います。大人になるほど雑念にとらわれやすいですが、まずは自分自身を信じることが出来ているか?自身の姿勢がどうであるかを問うていきたいと思います。
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見えないもの、自分では確信が持てないものを信じられるということは、未来がどうなろうと自分は信じると決めていること。相手は関係がないというところが難しく、そして楽しくもあります。世界は自分が信じているもので見ているのだから、信念を曲げたり曇らせたりせずに行きたいと思います。