自然を深め、自然と向き合っていると、自分たちの気づいていないことがまだ沢山あることに気づけるものです。例えば、身近な虫たちのことを観察してみても驚くことが多く、そこから不思議な能力を駆使して自然界を生き残ってきた智慧を学べるものです。
私は幼い頃から虫が大好きでしたから、虫を発見しては観察を愉しんでいました。諺の「一寸の虫にも五分の魂」の意味も、虫たちと直に接していたら自明します。その智慧のすごさと創意工夫と多様性の創造力には感動することばかりです。
虫のことを考えるとき有名な人物に「ファーブル昆虫記」を書いた「ジャン・アンリ・ファーブル」がいます。虫と直に接するということが、如何に人智を超えた智慧を学べるかということに於いて観察の重要性を生き方の実践で示された方でした。
その言葉には「観ることは知ることである」というものであったり、「現実は常に公式からはみ出すものだ」ということであったり、実際に「観察」することが如何に大切であるかということを仰っています。
人はすぐに自分自身の目や手、耳や鼻、五感を使おうとせずに物事を知識を使って分かった気になってしまうものです。しかし真実を知るということは、自分自身を使って観るということです。自分自身で観ることもせずに簡単に分かろうとすること自体が本来の姿を見失わせます。自然本来の学問の在り方にも警鐘を鳴らしているように私は思います。膨大な時間をかけることや、大変で面倒なことや、労苦を惜しまないでからだを動かして観察することこそが何よりも大切であるということを教えてくださいます。
ファーブルはまたこうも言います。
「学者というのは文句を言いたがるものなんだよ。私はこの目で昆虫を観ているんだからね。反対する人は自分で観察してみればいいのだ。きっと私と同じ結果が得られるだろう。」
これは昆虫に限られたものではなく、実践して道を深めてきた人の発言であることはすぐに分かります。文句を言う前に一緒に実践してみれば、同じ結果が観えるということなのでしょう。
虫の世界を知るということは、直接虫に触れて観察することで得られます。そしてそれは虫だけではなく、自然というものはすべて触れて観察し直感するものです。それが本来の自然の道、かんながらの道だからです。
自然を観察し直感する力こそが、虫や草花、動物たちの意識と視野であり自然のちからです。道を知るための自然の学び直しは続いていますが、観察力を磨き、自分の刷り込みを取り払い、自分の意識を変えて子どもたちの未来のためにも、確かなものを伝承していきたいと思います。
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知っているとはそもそも何なのだろうと思います。これまでも何度も見聞きしし、口にしていたことも自分で調べただろうかと思うとそうではありません。何でこれまで気付かなかったのかと気付くと思いますが、自然な流れとして今がその時なのだと学んでいきたいと思います。
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二宮翁は、「日々、繰り返し示される天地の経文に、誠の道は明らかだ」また、松下幸之助さんは、「自然の理法に従って己にとらわれず行動している自然万物を拠り所にした」とおっしゃいました。「観ることは知ることである」とは、「天地自然の理法、宇宙の法則、不変の道理、真理、そして誠の道」を学ぶということでしょう。それは、「より良く生きるためのヒントをあらゆるところに、既に与えてある」ということでもあるでしょう。よくよく目を開かないといけません。
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学生時代にただ暗記したような知識は、今はもうそのほとんどを忘れてしまいましたが、体験から得たものは忘れにくいように思います。何が違うのかと考えると、それは心が動いた量の差なのかもしれません。逆を言えば、たとえ体験を重視したとしても、心を働かせていなければ本来の学びにはならない。心を開いて学びを積んでいきたいと思います。
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昨日、家で娘が飼っているダンゴムシのカゴとザリガニの水槽を眺めている姿を見ていました。かわいいからただ飼っているだけでなく、どうやって暮らしているのか、オスとメスはどうなってるのか、なんで黄色い汁がでるのか、なぜ攻撃しあうのかと、ずっと観察していました。本で見たものが、本当なのかはやってみて確かめないと、納得できないのかもしれません。今、娘は好奇心に火がつき、ひとりでに、食べたメロンの種を蒔いたり、水やりをしたり、自転車の練習をしたり、自らで体験し掴む姿を見ていると私自身もそうありたいと改めて感じます。