昨日から鞍馬山に来ています。
不思議ですがこの山に来ると、いつも何かに包まれている感覚になります。もう何年になるでしょうか、子ども達の御志事をいただき参拝させていただくたびに山の気の有難さを感じます。
昨日も鬱蒼とした雨の九十九折坂を歩きながら、山全体と共に生きている波長や波動のような振動に触れては自然に包まれる御縁を感じていました。
私たちは出会いに包まれることで御縁に気づきます。その御縁に気づけば、自然に感謝する気持ちになります。それは私たちも同じように目には見えないものに包まれて活かされるいのちの存在だからでしょう。
いのちの存在は空気、水、火、そして宇宙、そういうものにいつも包まれています。
当たり前すぎて分からなくなったいのちの存在を、もう一度思い出すことの大切さは私たちが謙虚に生きてきたことの生命の記憶に触れていくことです。そしてそれを祖親は御縁といい、その御縁を感じる心を勿体ないといい、この世には一つも無駄なものがなく役に立つことという本質を今までカタチにして伝承してきました。
常に変わらず御指導いただける御縁によって、自分の真心を鑑にして徳磨きは高まっていくものです。人生の砥石は日々の初心の内省と、我執の削ぎ落としと実践による研鑽にこそありますが、時折、清水を沁みこませるように真心を洗い清めて静かに包まれていることを見つめ直す時間は人生にとってかけがえのない仕合せの余韻でもあります。
自然の厳しさの中には慈しみがあります。そういう厳慈の愛に包まれている私たちが包まれていることを思い出すことは本当のいのちの豊かさの意味に気づくことに似ています。
いつからか私たちは大自然の暮らしから遠く離れてしまい、同時にいのちを見つめることがなくなってきました。いのちに近づくとは、自然に寄り添ってみるということです。
自然は私たちよりもずっと長く悠久の歳月を暮してきました。
だから自然は私たちの先生です。
先生はだからみんな丸ごとで先生です
本来の先生は人間が偉そうにすることではなく、丸ごとみんな先生であるということを自覚することで全てが先生になっていきます。一視同仁、いのちの先生の言うことを素直に謙虚に聴けるいのちの生徒としての師弟一如の真心をこれからもあるがままのいのちのままに歩んでいきたいと思います。
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数日出張で家を空け気がかりになるのが植物たちです。日中自分も外に出てその暑さを体感していると、植物もきっと暑いだろうなと想像がつきます。いのちは生きているから暑いのだともの言わずとも教えてくれ、身近にある植物からそれを感じます。何もなければ心も殺風景、寄り添ったり心を掛けたり、そういったことを大事にしていきたいと改めて思います。
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神社の境内など、精妙な波動の域内に入ると心が落ち着くのは、私たちのなかに、もともとそういう穏やかで澄んだ心があるからでしょう。一日仕事をすると、千々に心が乱れ、雑な波動に染まってしまいます。その乱れた波動を戻すのが「反省」であり、その「反省を通して得られた穏やかな心で人を想い、未来を考える」ところに、日々の智慧が得られるのではないでしょうか。「書かれぬ経文としての自然」とともに、「何にもとらわれない素直で精妙な波動」を学び続けたいと思います。
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最近は神社に訪れる機会が以前よりも増えましたが、その建物よりもまわりにある木々から何か力をいただいているように感じます。同じに見えても刻々と変わりゆく自然の姿のように、自分自身も留まることなく変化していく存在でありたいと思います。
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命あるものを見下さない自分でいるか。本当に難しいことだと感じます。自分の命、使命、夢に一生懸命でいる状態であるか?出来た出来ないではなく、感謝を感じているか?
と、まずは自分を見下さない努力を怠らないようにして行きたいと思います。