この世の中、他人の刷り込みという方法で無意識にたくさんのことを見えなくしてきた。
マンネリ化という言葉がある。
これは大事なことが繰り返される間に、最初の本質が喪失することのことだ。
日々忙しく同じことを繰り返していると、考えなくなるのも当然だろう。
宗教でも昔からの慣習でもそうだが、本当は何かとても大事なことを忘れないように子々孫々へ伝承するために「方法」にして「形」になるものを先人が残したのであろうと思う。
しかしどんなことも時が経過するにつれ次第にその本質は語られなくなっていく。
つまり、最初にやったときが最高で後は下がっていくということだろう。
常に創意工夫をやっているのは関係性や時代背景にあわせて新しいものを生み出しているということなのだろう。
先日、古神道発祥の地と言われる長崎県壱岐島へ旅行に行ってきた。
確かに壱岐には、神社の数が尋常ではないからそれも納得した。
そして住吉神社である壱岐神楽を観にいった。
壱岐神楽は国内一般の神楽とは違って、唯一神職が舞うことが許されている神楽だ。
大事なものを守るために代々神主が型を正確に守り700年以上も続いているそうだ。そこには確かな日本人の感性で知り得る「厳かなるもの」があった。
世の中は、派手なもの、自分が分かるもの、共感するその道の浅い部分などを分かったつもりになり深く考えず刷り込もうとしそして刷り込まれていく。
子どもだってそうだ、不思議に思えば本当に世の中理不尽なことばかりなのにその疑問を感じようとはしなくなってきた気がする。
子どもがよくいう、「なぜ?」「どうして?」は刷り込みがない証拠なのだ。
大人はその「なぜ」を答えられない。
なぜなら、その答えを知らないでいいまま自分に刷り込んだからだと思う。
私は今でも童のように、「なぜ??」と思い続けることが多い。
たとえば、仕事の思想だってそうだ。
一般的には仕事の思想でいう今の時代の個人にとっての報酬とは雑誌や情報誌によく掲載されている「給与・年収、役職・地位」などだという。
しかし昔の日本は、日本人はどうだっただろうか?
ジャパンアズナンバーワンの時代はどうだったか?実際はどうだろうか?
松下幸之助さんや本田宗一郎さんなど尊敬に値する過去の偉人はみんな「仕事の報酬は仕事だ」と仰った。それはいわゆる「働き甲斐」というもののことだ。自分の仕事で自分が学び成長して他人を喜ばし、自分を誇らしく思え、家族を幸せにし崇高な志を持ち周囲のために自分を捧げる事を最良として素直な心で日々精進しながら感謝し貢献を悦びとする。
そうではなかったか?
本当の仕事の報酬と本質はきっと、自分というニンゲンがニンゲン社会に貢献できたということではないだろうか?
我々は今の自分の勝手なエゴに都合よく刷り込みをあわせてはいけない。
もう一度、真実の鏡を見抜き見取り、既存の刷り込みから脱却しないといけない。
そして本質の生き方を選んでいかないといけない。
どんなに抵抗されても刷り込みへは素心と感謝と報恩で使命を尽くしていかないといけない。
今の我々日本人は平和が保たれ、衣食住に事欠かなくなっている。
私が思う今一番必要なのは、「個がいかに本質に生きるか」じゃないかと思う。
私はそれをカグヤを通して率先垂範していきたい。
お互いが違いを認め合え生かし合い共に支えあう関係を目指すと心に誓う。