出来る意味

よくできる自分、できない自分という考え方で評価している人がいます。自分ができれば自分が周りから評価され、できない自分では評価されないという考え方です。小さい頃から、できることが価値がありできないことは価値がない、だからこそ努力するようにと刷り込まれてきたのかもしれません。
もちろん人は自分の夢や目標があるからできるようになりたいのですが、何のためにできるようになりたいかということが「出来る意味」に関係してきているように思います。
そもそも出来るというのは何か、古語では「 いでく(出で来) 」といもいいその意味は
現れる、発生する、できるともなっています。本来、他人は誰のチカラになりたい、誰かのお役に立ちたいと強く願い行動することで今までついていなかったチカラを獲得するように思います。
私自身もなぜ色々なことが出来るようになったかと思いかえれば、それは人のためにと役に立ちたいと必死に神様に祈りながら取り組んだことで次第に今までになかったチカラをいただくことができたように思います。そこにはまさに無我の中で出て来たチカラなのかもしれません。
そもそも何のためにチカラがほしいのかという問いがあります。できるようになったからどうなのかという認識が、もしも自分がえらくなりたいからや自分を周りに認めさせたいからや、自慢ができるからということであればそのチカラは果たして本当に「出来る」ことになったのかということを思うと疑問に思います。出来ない理由というものは、そこに自我妄執があるからかもしれません。出来ない自分を責めるのもまたそこに自分勝手な傲慢な姿勢があるからかもしれません。
忘己利他ではないですが、つまらないできるできないの自分を手放して一切を「できない自分よりも、お役に立てる自分がいい。」と開き直るとき、はじめて人は本当の意味で出来る自分に出会えるのかもしれません。
人間には必ず得意不得意がありますから、不得意は助けてもらい得意で恩返しすればいいのです。自分の得意で皆様のお役に立てるからこそ、自分の苦手は皆様にお役にたってもらえばいいという考え方です。出来るのは自分には御役割があると信じているからであり、出来ないのは周りの御役目があることを信じているからです。
自然界をはじめすべては御互いに役割分担をして、御役目を果たしていくことで成り立っている共生と貢献の世界です。貢献したいと願う心がある人は、出来ないということはありません。
できるできないに囚われるのではなく、自分が皆に喜ばれたり皆に御恩返ししたいと行動し、皆の御役に立てているかを求めて行動していけば「出来る」ことに沢山出会い、御力添えをいただくことができるように思います。
自利ではなく利他こそ出来るようになったと、子ども達に見せる背中を確認していきたいと思います。
  1. コメント

    誰かのお役に立ち、それが社会に貢献することにつながるのであれば、それは誰がしてもよく、「自分である」必要はありません。自分ができなくても、できる人にお願いすることでお役に立つこともできます。ただ、もし、役割が分担されているとするなら、本来やるべき自分が手を抜くことは、他の人の負担を増やすことになり、「本来のバランス」を崩してしまいます。「自分のできること」から発想するのではなく、「求められること」に従って自分を磨き続けるなかに、ほんとうの役割が見えてくるのではないでしょうか。

  2. コメント

    「できる」の前提に一人ですることを求められてきたように思います。一人で出来ることが自立で、出来ないのはその人自身の問題となっているように感じます。これまではそうだったかもしれませんが、これからはますます一緒に進めて出来ることが大事になってくるように思います。自分が求められた一人で出来ることを子どもに求めるのではなく、「共生と貢献」の理念にその意味を改めて感じました。

  3. コメント

    求められてきたから一人で出来るようになりたいと思ったのか、一人で出来るようになりたいと思うから求められるようになったのか。どちらが先であったとしても変わるのは自分だということはハッキリしています。今の自分の状態がまさに、とは思いますが、そう思えるからこそ、同じ思いをする誰かのお役に立てるのかもしれません。意味あるものとして受け止めていきたいと思います。

  4. コメント

    自分自身とは何かと考えると、自分は自我で自身とは頂いたものであると感じます。軸足を自分に置くと、自我にまみれ、自身に軸足を置くと、お陰様に生きる感覚を最近は得ています。どこに軸足を置いているか、よく自分自身を見つめたいと思います。

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