文明の進化は著しく、人工知能をはじめ様々なものが自動化していきます。自分たちが何もしなくてもいい世の中、つまりは勝手に何でもやってくれることを望み、何でも便利にした方がいいという価値観で社会ができあがってきています。
自分が何もしていない間に、何でもやってくれているという考え方はなるべく苦労せずにいたいという人間の欲望なのかもしれません。手間暇がかかるよりも、全自動がいいという考え方は心を感じるよりも、頭でぱっぱと終わらせたいということが優先されているようにも感じます。
全自動で時間が増えるはずなのに、実際の世の中は「忙しい忙しい」と何かしらに追われて生活しているのがほとんどの様相です。心が働いていない状態のままに全自動で事を進めようとするあまり、心が感じるチカラが次第に落ちていくから忙しくなるのでしょう。頭でっかちに頭でぱっぱとさばいているうちに、手間暇をかけられ心を用いられている全体のプロセスやかけられた時間、真心の余韻などを感じにくくなってきたのかもしれません。
そもそもこの「手間暇」というのは、手作りの料理で例えると理解しやすいと思います。手間暇かけて育ててきたお野菜を、手間暇かけた料理で、手間暇かけた準備で大切にもてなす。すると誰でも人はそれを食べているうちに心が満たされるのを感じるものです。もしも材料は合成し機械でぱっぱと加工しレンジでチンしたものを食べても同じようには感じません。舌先で感じる味と、深い味わい、そこには何が異なっているのかということです。
心というものは、映し鏡のように相手の心を感じ取るものです。相手がどんな心で自分を思ってくださっているかは、そのおもてなしや手間暇によって心が通じていきます。しかしそんなことを感じないで頭できっとこうだろうなと推測していくようになれば見た目ばかりを誤魔化してさも手間暇をかけたように見せていくのかもしれません。しかしやっぱり手間暇には敵わず、どんな人でも、いや身近な動植物や昆虫でさえ心を籠めて手間暇かけてくれたことは伝わっているように感じるのです。
これら心を遣わないことを便利だというのなら、この便利は果たして仕合わせであろうかと感じます。快楽ばかりの楽しさの追求ではなく、心が満たされ幸福感を感じる追求があると思います。古来の私たちの先祖たちは、幸福感を大切に一度きりの人生を大切に遣い切ってきたように思います。結果さえよければいいではなく、そのプロセスが一期一会であることを大事に味わってきたのです。それは御縁に活かされていること、多くの見守りやお力添えをいただいていることを有難く感じていたからです。
今の時代、私たち大人は大きなかじ取りの決断の時機に来ているようにも思います。人間にとっての本当の仕合わせとは何か、人間の心をどう育てていくか、子ども達に譲っていきたいものは一体何か、それは自分自身の生き方によって伝承されていくものです。
心の再生は、手間暇によって行われていくのかもしれません。敢えて手間暇をかけることを愉しめる心の余裕を、日々の生活の中に取り組んでいきたいと思います。感謝報恩の実践を高めつつ、思いやりやおもてなしを学び直していきたいと思います。
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「世の中が便利になること」と引き換えに生じている弊害の一つは「待てなくなった」ということでしょう。「ひと月待てた手紙の返事、メールになって一週間、LINEになって一時間?待てなくなってる、せわしないね」これは、京都佛光寺の「今月の標語」のひとつです。「相手の顔」を思い浮かべながら何度も書き直した手紙、その返事を待つ間に考えていた「相手の気持ち」。そういう貴重な時間をなくしてしまったのかもしれません。
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雨の匂い、雨の音、虫の声、ゆっくり過ごす贅沢さは何もしないことではなく、あるものに感謝することなのだと感じます。自分だけが忙しい分にはまだいいですが、それを理由に周囲への感謝を忘れ、横柄な態度を取り反省する自分に心ないことにハッとします。足りないことに不満を漏らすよりも、あることに感謝する気持ちを大事にしていきたいと思います。
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自動で済むものが身のまわりに増えていくとそれに慣れてしまい、本来あった神秘的なものにすら神秘を感じられなくなるように思えます。身体ひとつをとってみても食べ物の消化、睡眠中の回復など、およそ自分の力ではないものの有難さすら忘れ、暴飲暴食・睡眠不足をしてしまうこともありますが、子どもの育つ姿から改めてそれに気づかされることがあります。生かされているということから、ありがとうを見直していきたいと思います。
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どんどんと便利になる文明にバランスを取るためにも、手間暇の実践が必要なのだと、改めて危機感を持ちました。最近の生活を振り返るともっと自分の時間をどこに、だれに使うのかを考えると豊かだなと感じます。頂いているメッセージを行動に移したいと思います。