先日、社内に合計約500キロほどの備長炭や竹炭を設置することができました。太古の昔から炭は薬だとされそこから出てくる灰や炭、木酢液はあらゆるものを恢復する触媒になり、炎はゆらぎとして心胆を癒し、さらに煙には病をも治すという効果があると言われます。科学でも次第に微生物による空気や水の浄化にはじまり様々な炭の効果が証明されてきていますが、昔から炭は私たち人類をはじめ様々な生き物の生命力の恢復に大きな影響を与える治癒波動のようなものが出ているとも言われています。
しかし今では炭を使うことも少なくなり燃料としては電気が炭にとってかわり、炊飯や炊事に使うことがあるかないかくらいです。キャンプや野外でのBBQなどでは木炭が使われますが、本来の古来から重宝されてきた備長炭が使われなくなるのは残念なことです。
炭は火を使ってきた生き延びてきた人類にとって何よりも大事な住まいの中に暮らす道具でありパートナーであったと言えます。
例えば、陶器や金物もすべては高熱高温の窯の中でつくりあげられるものです。それらは炭を用い、陶芸家や鍛冶職人が伝統の技を用い伝承してきました。土や金を溶かし新たなものへと錬金するのは炭と火がなければ実現しません。
私たちが火を使うということは、道具を産み出すために必要なチカラでありそれを暮らしに活かすことで私たちは生活を続けることができたのです。竈での炊飯などの歴史の方が、今のガスコンロよりも長かったのは自明の理です。
備長炭は今でも10日以上の日数をかけて、炭職人が丹精と手間暇をかけてつくりあげられるものです。その備長炭を生活の中に取り込むというのは、私たちが古来から安らぎの生活の一部をカラダで感じることです。生活の中に古来から御縁が深い暮らしの仲間を集めていくことは、不自然な暮らしを見つめる自分自身の鏡になります。それは炭だけではなく稲や大豆、味噌や醤油、漬物などの発酵がすべての原点です。そしてこの「炭」こそ発酵道の途中にあるものであり、ブクブクシュワシュワと周りを活かし元気にしていく微生物の住まい、つまり「発酵する生き方」には欠かせない大切な智慧そのものでありその根本です。
都会に住んでいようが、どこにいようが住(炭)と暮らしは一体となり分かれませんから自分たちが何をパートナーとして生き延びてきたか、自分たちがどういう住まいで暮らしてきたか、そして何を自然としてきたか、身近な大切な存在から今一度学び直す必要があると思います。
子ども達に炭のある暮らしを遺していきたいと思います。
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炭の量に正直圧倒されましたが、あの炭は自分自身が持つ刷り込みの量を表しているようにも感じました。何のための炭であり、発酵なのかを考えると感じるものがあります。メダカを飼いはじめ、最初の1週間はとにかく最低限の環境で、1週間経つと水は濁っていました。その後炭を入れ1週間経つと、同じ1週間でもその差は歴然で、澄みわたるように水に炭の力を感じています。そして、1月に仕込んだ味噌をみそ汁にして頂きました。発酵中は目に見える味噌の色の変化は感じていても発酵のことがよく分かっていませんでしたが、みそ汁を口にして、自分自身もこの間発酵していたのだと感じ得るものがありました。発酵を学び、暮らしを見直していきたいと思います。
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「どうして炭が暮らしにいいのか」ということは、科学が発達してだんだんとわかってきたことです。しかし、古人は、理屈ではなく、波動からその良さに気づき、経験からその働きを知って、生活の智慧としてきたのでしょう。炭に代わる火力や脱臭剤が発明されても、それは炭の持つ働きの一部であり、「炭そのもの」に代わるものではありません。熱量はカバーできても「炎のゆらぎ」が持つ働きまではカバーできていません。安く便利になる代わりに、肝心の役割を失っていないか?!注意する必要があるでしょう。
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先日、子どもが飲みたいと言って購入した清涼飲料水に果汁が一切入っていないにもかかわらず、その果物の味がする(ような気がする)ことから、そこにどんな意味があるかの話になりました。ドライイーストと天然酵母の違いも実際に目にして味わってみたからこそ子ども自身も納得がいっている様子でした。メダカの水槽の水も全く違う、そんな実体験から気づいていける環境が周りにあるのは子どもだけではなく自分にとっても大切なことだと実感します。我が家も今日、手作り味噌の味見をしてみようと思います。
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我が家も沢山の生き物や植物、味噌や納豆など微生物と暮らし始めると、暮らしそのものの不自然さに気付いてきます。そして、気が付くと少しずつですが、色々なものがそぎ落とされて暮らしがシンプルになってきていることを感じます。炭に囲まれる生活もまた、新たに自分の価値観を捨て、
大きなインプットとなる取り組みだと感じます。そういった瞬間を大切にしていきたいと思います。