人は、向き合って話をするのと同じ方向を向いて話をするのは異なります。向き合ってしまえば相手からどう見られているかという自分のことを気にしてしまうものですが、同じ方向を向いているのなら自分のことは気になりません。相手からどう見られているのかが気になってしまえば相手のことを分かろうともせずに、自分のことばかりを気にしてしまうものです。
同じ方向を向くというのは、同じ理念を持つということに似ています。何を目指しているのか、何のために一緒にいるのか、そういうものをしっかりと自分の心の中に握り離さずに持つならばもっとも大切なことはその本質に対して自分がどのようにするのかということとの正対が必要なだけになります。
しかし実際は、目的や本質から離れて保身や自分の見せ方や見え方ばかりに終始してしまい対話が対決のようになってしまっているのものです。
本来の対話は決して向き合ってはできないもののように思います。同じ方向を観て、その上で自分の意見を伝え互いに分かり合って通じ合っていくものです。そのために自分がなぜこれをやるのか、自分が何のためにここにいるのかといった初心を忘れずに互いを思いやり話し合いをしていくのが本当の対話でもあります。
自我や自意識に呑まれるのは初心や理念を忘れてしまい、自分の本心を優先するよりも目の前の目に見えるところだけに執らわれてしまっているからともいえます。そういうときは、自分を気にせず本質を優先し分かってもらおうとするよりも相手のことや全体のことを分かっていこうとしていくことが大切なことのように思います。
自分を気にしすぎれば思いやりが欠けていきます。そして自分が大変で余裕がなければないほどに視野は狭まっていきます。視野が狭まればまた余計に目に見えるのは自我の価値観のメガネで見たい世界しか映りませんから悪循環に入ってしまいます。
視野を広げるということは、自分の価値観の枠を手放してみるということです。この人と話せば視野が広がる人がいますがその人はいつも本質を見つめ、初心を忘れず、理念を実践する人です。覚悟を決めているから余計な悩みも惑いも少なく、あまり価値観に心を染められることもありません。
そういう理念や初心こそ本来見つめるものであり、見つめるものをあまり周りから見られる視点にしないことが心を澄ませていくことにもつながっていくのでしょう。本来の自分自身が憧れた生き方や、自分の魂が求める生き方を優先していくことが理念の実践です。
理念の実践を通して自分自身の我執に打ち克ち、感謝の心で恩返し恩送りしていくことで本当の自分自身に出会えます。子ども達のためにもその人の我儘を守らず、その人の真心や理想を見守れるように精進していきたいと思います。
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「対話」しようと向き合ってしまうと、かえって「お互いの違い」を鮮明にすることがあります。相手のとの「違い」を通して「自分を知る」にはいいのですが、その「違い」が問題になってしまうと、優劣や正しさに支配され、その結果、「保身」が働いて、今度は「本質」が見えなくなってしまいます。特に、お互いの意見や価値観が前に出てしまうと、「対話」になりません。自分なりに考え抜いてその場に臨む。しかし、「対話」するときには、自分の仮説や結論は一旦横に置き、とらわれないで、素直に受け答えできるようでありたいと思っています。
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母の実家に来て、改めて見守られていること実感しています。裏山は竹が生い茂り、柿と栗の実を拾い、お墓と庭の掃き掃除。昔やった体験もどれも新鮮な気持ちに感じ、小さい頃の思い出も蘇ってきました。たまにしか会えませんが、いつまで経っても孫は孫のようで、対応が昔のままですが、そこに安心感と見守られていることを感じます。理念を実践し、見守れる自分に近づいていけるよう、精進していきたいと思います。
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先日の一円対話の自由テーマを「自分の憧れる人とその理由」としましたが、参加者の話は皆、人よりもその人の生き方に憧れているというものでした。人の魅力とはその人の持つ能力やらしさよりもその背景にある生き方の方にあるのだと思うと、人の何をみて自分の何を見直すのかが感じられます。上辺でもその場凌ぎでもない日々の生き方から滲み出てくるものを大事にしていきたいと思います。
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休日の使い方を見ていると欲を満たすことと、理念を実践することの違いは異なるようで似ています。欲じゃない‼と思ってやっていても、振り返ったら、そして周りの顔を見たら、少しわかるように思います。そんな日々ですが、理念を実践しようとする姿勢自体があれば、それでいいように思います。理念かどうかを自分なりに考え、行動し、やってみて振り返って、学習する。その繰り返しの中で、磨かれ、我が削ぎ落ちていくのだと思います。無理に頭で考えすぎて、行動がおろそかにならないように、木をつけていきたいと思います。