本質を保ち、真実を実践するというのは他人からの誤解を多く招くことがあります。本来は世間一般の常識に合わせて、誤解されることを憚りうまいことやっていくという方法もありますがそれがもしも誠実ではないと思うのならばそういう生き方が次第にできなくなるものです。
自分がどう相手に思われようとも、自分の真心を盡す生き方というのは簡単には分かってもらえるものではないのかもしれません。そんな時、なんでこうなるのだろうかと自己嫌悪になることもありますが自分の真心や素直さに嘘がなければ天が分かってくれるだろうという境地に入ります。
昔、維新の志士たちはみんな同じような思いを抱いて歩んでいたように思います。「世の人はわれを何ともいわばいえ 我がなすことはわれのみぞ知る」という詩であったり、「世の人はよしあしことも言わば言え しずか誠は神ぞ知るらん」であっても、己の中にある誠実さに対して恥じていないかをモノサシにしました。他にも、「志を立てて、以って万事の源となす」、「他人を相手にせず天を相手にせよ」とも言いました。どの時代も、誤解をされようが自分の真心を貫いていくことは志を抱き生きていくために篩にかけられる試練の一つであろうと思います。
しかしそうはいっても人間ですから、人間関係での誤解というものは苦労も多く、親しい人や身近な人の誤解にはまいることもあるものです。そういう時は、同じような生き方をする同志や道を歩んだ先達や師のことを思い返します。そして私は曾子の「三省」のことをいつも思い出します。
そこにはこうあります。
「曾子曰く、 吾れ日に吾が身を三省す。 人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習はざるを伝へしか」と。
相手からどう誤解されようが、自らの心に真心を訪ねて常に内省し続けた曾子の生き方に共感し、常に自らが愛する人たちすべてに対してどうあるべきかと問い続けていけばいいのです。大切なことは相手によってころころと態度を変えて自分を守るのではなく、相手によらず自分自身の真心を盡していくことと、それを遣りきることでいつの日かその誠意は伝わる日もくるように思います。そしてそういう生き方を貫く人には必ず仲間が顕れ孤独になることはありません。
道を歩んでいくということは、誤解されるということはつきものです。
最後に道を歩むことを忘れないために発奮していくときに思い返す言葉があるので、同じような思いをする同志はぜひこれによって誠を盡してほしいと思います。
「自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。
どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。
広いときもある。狭いときもある。
のぼりもあれば、くだりもある。
坦々としたときもあれば、
かきわけかきわけ汗するときもある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、
思案にあまるときもあろう。
なぐさめを求めたくなるときもあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、
いま歩んでいるこの道、
とにかくこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられている
かけがえのないこの道ではないか。
他人の道に心を奪われ、
思案にくれて立ちすくんでいても、
道は少しもひらけない。
道をひらくためには、
まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは
必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。」(松下幸之助)
与えられた道を迷わずに歩み切る中にこそ、真実の「信」があります。道を信じる心が天に通じるとき、至誠となります。至誠を盡して信じて歩むことを已めず、必ずや真心が通じる日がくることを念じて粛々と実践を続けていきたいと思います。
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自信を失ったり不安に思うことも時にはありますが、最近の出会いは会えば会うほど自信を頂いていることを感じます。実践が自信に変わり、確信に近づいていくような感覚はこれまでなかったものを感じています。自分云々と考えていた時よりも今の方が、ぶれても戻れるのは実践している他の仲間がいるからです。そして、その人らしさを知ることで誇りに思え、仲間の言動もその全てが振り返る機会になっています。狭い視野で振り返るのではなく、ありたい方に向かう三省を大事にしていきたいと思います。
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人生には、「類が友を呼んで安心するとき」と「違いが明確になって不安になるとき」があります。しかし、これは、いずれも「自分の道を歩んでいる」ということでしょう。「道を歩む」というと、用意された「道」を選択するように思いますが、「歩んだ後が自分の道になる」というのが真実ではないでしょうか。「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」と詠んだのは、高村光太郎であったと思いますが、「歩くから道になる」のであって、後から来る人に、「こんな道を歩いた人がいる」と知っていただけるだけでも十分なのではないでしょうか。
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期待に応えようと思って生きてきた時を振り返ると、心ある友人や恋人からは「もっと自分らしく見せてもいいのに」「良い顔ばかり見せなくてもいいのに」と言ってくれたことがあります。自分ではそんな風にしているそぶりもありませんでしたが、確かに相手かまわず、条件構わず、自分の生き方を貫いてきたかと言うと、そうではない選択をしてきたことは自覚できました。それでもする、と決める覚悟が大事なのだと突きつけられたことを思い出しました。周りの人のふとした声に、本当に大切なメッセージが含まれているのだと思います。期待に応えようとするのではなく、自分の求める生き方や道が、誰かや何かを使って発してくるメッセージに応えていきたいと思います。
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日本の原風景のような景色の中に流れる川の水の美しさに心惹かれたのは、本来の姿というものが貴重で珍しく思えてしまう現状があるからなのだと思います。その水の清らかさは人間の持つ「子ども心」や「志」と同じものだったのかもしれません。なぜ清らかさが失われてゆくのか、それをもっとよく考える必要があると感じます。川の水のように、流されず無理に流れようともせず流れを止めることもせず、自然のままあるがままでいることを大切にしようと思います。