今の時代は何でも便利になってきました。不便なことを嫌い、不便を悪とさえみなし不便を遠ざける生活を送っています。しかしこの不便というものは、実は生きる力に深くつながっていて便利さの中にいるというのは生きる力の減退になっていることに気づかなくなっているものです。
そもそも不便というのは思い通りにならないということです。人生は思い通りにいくだけの人生などはありあせん。時には順境、時には逆境、どちらかといえば理想や夢を抱き追い求める人生を歩むならそのほとんどは試練や苦労に包まれるものです。 そんな時、何でも思い通りになる便利な生活は果たしてその人のもともともっている乗り越える力や立ち直る力、つまりは生きる力を高めているかということです。
その人の生きる力というものは、その人がどんな人生であっても自分らしく主体的に自分の脚で力強く歩んでいくかどうかという力です。
昨日のブログのコメントで、高村光太郎の「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」がありましたがこれはどんな道で歩んでいくという生きる力、人間の持つ生命力や本能でいることの大切さを伝えてきます。
そういう人間の生命力や本能は「不便を味わい楽しむ」ことで磨かれていきます。不便だ不便だと便利さを追い求める前に、不便であることの方が自分の生きる力が磨かれ、そしてその状態が愉しめているのならその人は逞しい人になっているとも言えます。
今の若い人たちや今の時代の人たちがなくなったといわれるものに「逞しさ」がありますがこれはすべて便利さの中で失われたものです。
不便を愉しむ心があるのなら、どんな逆境でも乗り越える強さとやさしさが身に付いているように思います。 思い通りにならないことを嘆かず、むしろ思った以上のことが起きているのではないかとワクワクドキドキと歩んで往く姿にこそ道を歩んでいく尊い生き方がきらりと光り、子ども達の憧れる大人の背中になっていくのでしょう。
敢えて不便さを与えるという古来の仕法で新たなロードマップと結び付けていきたいと思います。
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「不便だか、不幸ではない」と言われることがあります。何らかの事情で、思い通りにいかない、あるいはスムーズにできなくでも、代わりの方法は何かしらあるものです。しかし、一度「便利」に慣れてしまうと、その便利さが使えないことを、「不幸」と感じてしまいます。そこには、「工夫・努力」というものがありません。「ひとつのものに頼る」「ひとつのやり方しか知らない」という生き方は、本当に頼りないものです。「工夫する」という人間の逞しさを取り戻す必要がありそうです。
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普段の生活から一変して、古民家で過ごすとそのギャップに新鮮さを感じます。いつもの生活では感じられないことは、実は色々なことを取り除かれている生活でもあることを感じました。IHが使われていると思えば、家の真ん中に囲炉裏があり、周囲に植わる花が家の中を飾り、不便さと豊かさの共存を見たように思います。たった一日でしたが、今後古民家で過ごしているイメージが湧きました。不便というよりも豊かさを愉しむ象徴になるかもしれない、そう感じます。
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チェンバレンの言う「貧乏はあっても貧困はない」という言葉と同じように、この良い意味での不便さもまた近代化によって失われたものなのだと、古民家での生活をはじめ今回の研修で体験したものを通して感じました。更には花一輪ゲーム、創作茶会の体験型プログラムから、感覚から動くことの大切さ・豊かさを実感し、子どもは日々こうした遊びという体験を通して学んでいるのだと思うと、なんて贅沢なんだろうと羨ましくも思えました。子どもは遊びの天才と言いますが、本来子どもが持つべき生きる力を奪っているものは何か、改めて「教えない教育」というものを感じていきたいと思います。
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最近は、古くなったものを捨てるのではなく、フリーマーケットに出すことが当たり前になりました。手間暇はとてもかかりますが、その分、物を買うにも何にしても、考える事が変わって来ました。大切にできるものしか買わないこと。また誰かの役に立つものしか買わないこと。少しずつ、物への意識が変わって来ているように感じます。不便さの中には良い物語が沢山生まれますが、その1つ1つを味わっていきたいと思います。