人はなんでも便利な生活を続けていくと感謝がなくなっていくものです。それに自分の思い通りの生活をしていると傲慢になっていくものです。人はあるものがあたりまえになることで順応しますが、本来、当たり前ではないものに感謝できなくなると何か事が起き教えてもらえるものです。
例えば、健康もそうですが普段は何事もなく生活していても健康を害することがあればすぐに健康の有難味がわかります。また他にも、両親や子ども、仲間や友人なども同じく失ってみて当たり前ではないことに気づきます。
水や空気、そして太陽の光や風に至るまで、当たり前にあると思っていることが間違えであり失ってみてその偉大さ尊さを実感できるのです。
これは生き死にも同じです。
生きていることの有難さは、死ぬことがあるからはじめて深く味わえます。死ぬことがなければ生きることの真意が分からず、一日一生一期一会にいきようとは思わないものです。人間は、どちらか自分に都合の善いことだけが発生するのではなく同時にもう一方のことも知ることでその真価を味わえます。
出会いの素晴らしさを知るものは、同時に別れの素晴らしさも知るのです。
つまりはその両方を深く味わっていくことが人生ですから、如何に今を大切に生き切るか、そして先のことを迷わず後のことを憂えずにもったいないと味わっていくのならそれが何よりも人生の醍醐味を感じることになるのでしょう。
別れが怖いから出会わないでは本当の素敵な出会いはありませんし、死ぬのが怖いからでは本当の素晴らしい生はありません。怖いから正しいことばかりをしようとする人もいますが、正しいから怖いことがなくなるわけでもありません。
大切なことは、生まれてくる前に選んだはずの今の自分の人生をどこまで深く味わい盡していくかということでしょう。他の人の道に自分の道を左右され迷うのは実践が足りないからです。迷わず自分の道を歩むというのは、二度とないこの道を深く味わっていくことのように思います。
人生道場は修行の連続ですから、初心を忘れずに実践を続けていくことで余計な迷いを振り払って今此処に集中していくことのように思います。何が訪れたとしてもそれは天の計らい、神様の仕業だとその面白さやその御縁を味わい、意味を紡いでいけることは仕合わせなことだと思います。
子ども達の未来のことを色々と憂うこともありますが、今から離れては本末転倒ですから「今此処絶妙!」と面白く味わい、その実践を着実に続けていきたいと思います。
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「いま、ここ、わたし」という言葉があります。この「三つ」を揃えることが、真に生きることでしょうが、意外とこの「三つ」を揃えるのは難しいものです。気を抜くと、すぐどこかへ行ってしまいます。後悔や不安は、心が「いま」にありません。迷いや悩みは、心が「ここ」にありません。羨望や嫉妬は、心が「わたし」にありません。結局、「頭」を使っている間は「心」が安心のなかにありません。「心」を遣って実践しているときのみが、この「三つ」が揃っているときなのかもしれません。
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あれもこれもしないと、と思っている時心は焦り今ここに集中していません。焦りや不安を煽り将来に希望が持てない社会よりも、今ここを味わう実践をまず自分自身からはじめて行きたいと感じます。先のことを考え過ぎ思い煩うよりも、そんな時こそ初心を思い返し少しずつ進んでいきたいと思います。
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自分自身が「今此処」を大事にしているかどうか、それは同時に相手の「今此処」を尊重しているかどうか、ということにも繋がるように思えます。過去を気にしたり未来に期待するよりも「今」をみる。それは子どもを例にして自分を観ると実感し易いように思います。ある園様の理念『今の気持ちと今の発達に寄り添う優しさ』というものを自分自身、大切にしていきたいと思います。
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今、初心でいるかと、問い掛けると、手段と目的が逆転していたりの連続です。寄り添いなく、行動すれば只の仕事であり、見守りや、初心とは懸け離れたものだと実感します。今日も、今も、ありたい自分を見て生きたいと思います。