人には善意というものがあります。いいことをしたい、喜ばせたいというものがあります。しかしその善意が自分の一方的な押し付けであればそれがエゴになることがあります。自分が善かれと思ったことが相手からすると迷惑になることがあります。これを善意の行き違いといい、これを有難迷惑という言い方もします。
それはきっと相手はこうだろうと思い込んだり、自分の価値観で同情したりすることでその善意は本来の姿を歪めてしまいます。本来、相手が望んでいることは何かと、相手に寄り添い傾聴していき求めているものが何かをしって自分のできることで御役に立つことができるならそれは相手にとっての善行になります。しかし、自分が勝手に思い込んでやったことはひょっとすると相手にとっては迷惑であることもあります。本当に頼みたいことはやってくれず、頼んでもいないことばかりをやっては感謝を求めたり、押し付けたりするのはまさに善意の行き違いとも言えます。
これは自分の同情から来るものですが、同情というものは共依存するものです。同情を求める相手に対して、同情する人がいる。もともと同情を乞う心理というのは自我に執らわれている心理とも言えます。同情とは本来、同じ思いになることですから相手が自分だと思って共感することです。しかし実際に勘違いしている同情は、自我が自他を比較し憐れんでみているだけで決して共感しているわけではないのです。
この善意が行き違うということは、本来の善意ではないということです。
なので本来の善意を実践するには、相手の話を相手の立場になって心寄り添い傾聴して共感し、受容することです。それをすることで、相手は同情の有難さを感じ、情け深さによって自分を取り戻し自らの自己憐憫を手放していくように思います。
特に経営者や上の立場の人は、この同情を勘違いして失敗するように思います。自分の方が立場が上であるという事実と、下の人が自分が下なのだという関係が発生するとき、この歪んだ同情の共依存が発生するのかもしれません。
それを断つには、聴福の実践しかないように私は思います。本来は、有難迷惑や善意の行き違いなどはなく、心が澄んでいるのなら、有難いことは迷惑ではないし善意は行き違うことはない。
自分の心を澄ませてみて、自反慎独し全てが有難い御縁であると心から感謝をして御恩に対してすみませんという真心を感じることができるならお互い様の御蔭様に気づいて、善意の行き違いになることも有難迷惑になることもないように思います。
心を澄ませるのは情を整えることでもあります。心を澄ませて情を整えるという順番を間違わないことが本来の善意を盡す方法ではないかと私は思います。情動だけで物事を進めるというのは心が澄まされていないから御蔭様が消失してしまいます。
人間は情が厚いからこその間違いもありますが、それは情を薄くするのではなく情を磨いていくことで澄まされていくと思います。日々は人生道場ですから、言葉、心、行動の一つ一つを丁寧に真心の実践を積み重ねていきたいと思います。
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よかれと思ったことが相手にとってはどうだったろうと思うことがありました。教えるというより、体験を伝えたつもりでも受け取り方が相手次第のところがありますが、ただ善いことになると信じきっていたかと自問するとそこまで考えていなかったことを思います。善意は寄り添いであり、見守りであり、応援のようにさえ感じます。温かく見守られていることを感じると、自分も誰かのそんな存在でありたいと身が引き締まる思いです。ミマモリングという視点で実践を積んでいきたいと思います。
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「せっかくあなたのためを思って」とか「これほど心配しているのに」という時は、何かがズレています。自分は「善意」のつもりでも、その行為が、「自分の中の理屈で成り立っている」ときは、たいてい、こちらの「勝手な善意」です。ほんとうの「善意」は、もっと自然なものです。自分で「自分の善意を意識するような時」は、まだ心が澄み切っていないのでしょう。「反応」を期待している間は、降り切れていないのかもしれません。
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先日の稲森和夫氏の「考え方×熱意×能力」を思い出しました。考え方が誤っていたらゼロどころかマイナスにさえなるということ。松陰先生も「世に学問をする者は多いが真の学者がいないのは、その志が既に誤っているからである」というような話をされていたように思います。大本を誤れば武道なども却って凶器になり、ボランティアや人助けなども現地や相手の心情を無視したものになれば却って混乱を招くように思います。人のそのような姿を見たことがあり、同時にまた自分自身も反省すべき体験を幾度もしてきています。行動すること自体は善いことだからこそそれを認めながらも、常に心がどうであるかを確認していきたいと思います。
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先日の致知の記事にあった「受けて立つ」という言葉が強く残っています。それは、自他一体であり、軸足は相手であり、欲のあるないの世界ではないことを感じます。善意とは何なのかを自分に問うと、自分の善意、相手が感じる善意と分かれている間は中々分からないように感じます。子どもと親との関係のように、一緒に過ごし、対話し、共にお互いの事を感じられる状況が作れれば、善意と言う言葉が共に歩むという形に変わるのかもしれません。お互いが頂いている役割を見つけられるように、対話し合い、寄り添い合う事を大切にしていきたいと思います。