随分前に読んだある新聞にこんな文章が書いてあった。
「子どもたちは親の期待や夢をひとつひとつ裏切りながら自立して親元を巣立っていく・・・」
これは、記者が親の立場で書いたものだ。
でも、なんとなく言いたいことは分かる気もする。
子どもは自分の所有物ではなく、一人の生命なのだ。
だから、大きくなるにつれそれがはっきりしてくるものだ。
子どもは親の都合やエゴで関わるのではなく、その子の自主性や主体性を見守りながら関わっていくのがいいのだと思う。
見守るためにはきっと、子どもの将来を必要なときに必要な量だけ援助してあげればそれだけでいいのだろう。 それも相手が求めてこなければ余計なことは決してしなくてもいい。 つまりそっとしておいた方がいいのかもしれない。
愛心が深いだけにどうしてもなかなかそれが実践できないのが親心だ。
この見守る意味を知り、愛するという観念を常に見直しながら相手との距離をしっかりと尊重し大切にしていくことができるのだろうか?
その深遠な問いは、常に日々脚下の実践でしか理解することはできないのだろう。
つまり見守るということは、自他ともへの厳かな愛のかたちでもある。
常に自分から、常に自分から、相手との距離を大切にし 変わっていくことだ。
コメント
自分の押し付けによって子どもと関ってしまうのは良くないと改めて感じました。
今考えると、保育士の時に過保護に関ってしまったり、期待を持ちすぎて無理に子どもに押し付けるような保育をしていたのかもしれないと思いました。
カグヤに出会い、見守る保育に出会い、自分の保育は子どものことを本当に考えていたのかを考えると、大人都合の保育をしていたのではないかと思います。
きっと自分と同じように、気付かない先生方もいらっしゃると思うので、多くの先生方に自分が感じたこと、気付いたことを通して見守る保育を伝えたいと思います。
コメント
子どもは無限の可能性を秘めている存在であり、大人が関わりすぎると、その可能性という
芽を摘んでしまうことにもなりかねない。やりすぎるとよくないし、何もしなくてもよく
ない。子どもの発達をきちんと捉え、その方向性がズレない様に、見守っていくことが必要
なのでしょう。子どもの持つ夢は必ず華開くのだと信じて、その夢を応援していくことが
大人にとって必要な関わりなのかもしれません。
距離感ということを改めて考えさせられます。
コメント
子どものことを信じるということがいかに大切な事なのかを感じます。人は誰しも無限の可能性を持って生まれてくるのだと思います。しかし今の子どもたちはその無限の可能性を大人によって止められているのも現状だと思います。果たして大人である私たちや親という立場の人たちが子どもの可能性を奪う権利があるのか疑問を感じます。もちろん親があっての命かもしれませんがいつかは自立しなければいけないことを考えると大人であろうと親であろうとやはり子どもありのままの生きる力を信じることからはじまるのではないかと思います。