心の安住~寿命延~

この世のすべては一年の季節の廻りと共に齢を経ていきます。年輪のように、毎年一つずつ老いていくとも言えます。その時間が、合計で数百年生きるものもあれば数十日で死んでしまうものがあります。自然の中では、その宇宙の流れ、地球の四季の廻りに対してそれぞれにいのちのサイクルがあります。

以前、新潟の方言で「寿命延」を紹介しましたが天命に従いこころ安らかにそのいのちの道に沿って無為自然、融通無碍に生きると天寿が伸びるという意味でしょうか。いのちにはそれぞれに天命があり寿命がありますから、天寿を全うしてそのいのちが尽きるまで私たちは生きていることができます。

生き物には、それぞれに生きている時間軸というものがあります。ゆっくりと流れる時間に生きるもの、そして早いスピードで流れる時間に生きるものがあります。それを「一生」と言います。

人生であれば、その人の一生は同じく生まれてから死ぬまでにいのちをつなぎ、そのいのちをつなぐ中での物語を味わい、同時に魂の求める声に従って天命を歩んでいきます。そして一つのいのちを終えて一生です。

虫たちも同じく、生まれてから死ぬまでに自分のいのちを他のいのちにつなぐために生きています。その生きている中では、親があり子があり、あるいは伴侶あり友あり兄弟ありと仲間とめぐりあいその一生の物語を飾ります。

それぞれに一生懸命にいのちを遣りきるなかで、私たちはどのようにその一生を味わうかはその中にある心次第です。しかし同時にそのいのちは多くの愛に包まれています。短い一生を終えたとしてもそこには一生の四季があります。そして永い一生を終えたものにも四季があります。

いのちには四季が備わっていると感じる心は、天寿を全うしたと感じる心です。

自分のいのちがどこまで続くのか、分かりませんが人生の四季は常に今の感じる心の中にあります。春夏秋冬を経ていくというのは、一生を経ていくということです。一生を経ていくというのは、過ぎ去っていく時間を愛おしむことです。

自分が大切な天寿を全うしているように、まわりのいのちもまた同時に天寿を全うしています。御互いに天寿を全うしているのだからこそ、御互いに慈しみ合い、大切な天寿を延ばすように暮らしていきたいと感じます。

一生を共にするものたちが、自分と一緒にいることで仕合わせになるような生き方を選ぶことで御互いの心が安らかになっていく、そこに寿命が延びる歓びを感じられるのかもしれません。心の安住というのは、心が深く満たされるときに感じ、それは自分が天寿を与えられそれを使い切ることが出来ているときに感じられるのかもしれません。

自分の一生に具わっている四季のめぐりを味わいながら、後に続くものたちのために一歩一歩大切に歩んでいきたいと思います。

  1. コメント

    調子が良いとき、不調な時いろいろありますがそれを受け入れると少し安心します。今はそういう時なのだと受け入れれば、じっと耐えられます。耐えた分大きな糧になると信じ、あるがままを大事に味わっていきたいと思います。

  2. コメント

    島根県に、1トンの砂を一年かけて落とす世界最大の「一年計砂時計『砂暦』」があります。「砂時計」は、止まることなく静かに落ち続ける砂に、「時の流れやその儚さ」を感じるものですが、この『砂暦』を見ると、落ちる砂より、「落ちて溜まっていく砂」に、「時は過ぎ去るものではなく、自分のこころのうちに、からだのうちに積もりゆくものである」と実感すると言います。「諸行無常」と悟れば、すべては「過ぎ去っていくもの」ですが、「与えられた一生分のいのち」と見れば、日々は「過ごすもの」ではなく、仲間とともに生きた証を刻みながら「自分のなかに積もらせていくもの」かもしれません。

  3. コメント

    お互いが精いっぱい生き合っているのだから、慈しみ合う。
    その言葉に深みを感じます。自分の身体も精いっぱいに生きてくれているのだから、やはり、慈しみ合うことが大事なのだと感じます。もっと、と求めることをやめ、自分が身体に出来ることを精いっぱいに遣りきっていきたいと思います。

  4. コメント

    丁度、今朝ベランダで育ててきた稲を収穫してきました。手作り味噌も食べごろになりいろいろと実りを感じられる秋になっています。ただ実ったものをいただけるという歓びと言うよりは、その背景にあるストーリーが感じられるからこその味わい深さなのだと思います。昨日の一件も、仲間からの発信も、共に生き高め合える仕合せを改めて感じさせてもらえる機会となりました。ありがとうございます。

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