先日、「ほのぼの」(仄仄)という言霊に気づかせていただく機会がありました。私たちがおもてなしで心を籠めて取り組んでいる実践を「ほのぼのする」と表現してくださった方がいたからです。
この「ほのぼの」というのは、心を顕す言葉であり「心暖まる」「心和らぐ」、他には「心が癒される」という意味になります。人には心がありますから、心がいつも豊かで仕合わせであるというのはこのような心の通じ合いがあって感じるものです。
今の時代は、日々にやることに追われ急ぎ焦り心を籠めるということもなくなってきました。心を亡くしていてまるで人形やマシーンのようになってしまえばそのうち心の在り処がなくなり心は疲れ切ってしまうかもしれません。
もしも自分の心を亡くしたままに歩んでしまったら本心がどこにあるのかもわからなくなってしまっているかもしれません。現代の社会問題の中に、根強く残る自分らしさの消失はこの真心を見失うことからはじまっているように思います。自他を尊重することや、自分自身が調和することもすべてはこの心の在り方に懸っています。
人は、心の在り方次第では観えている世界は異なっていきます。同じこと同じ現象、同じ環境が合ってもある人には天国、ある人には地獄であることがあります。いくら世間で幸せだと評されようとその人の心次第では不幸であり、いくら世間でかわいそうだと同情されてもその人の心次第では幸せなのです。
人生はその人の心次第ですから、人生をより善くするのは心がけです。心がけが歪んでいたらその心もまた歪みます。心がけが澄んでいるのならその人の心もまた素直になっていきます。
どう生きるのかは自分にしか左右できず、それは全てにおいて心がけが決めます。
その方から「心の田に日々に種を蒔くこと」を教えていただきました。これは心がけのことです。どんな心がけで日々に生きるかはその人次第、悪因悪果、善因善果、それはもう随分前に自分が蒔いた種が芽を出して今に現れただけのことです。誰のせいでもありません、すべては自分のせいですから言い訳はできません。
如何に日々に福行の種子を蒔くかが、福世かな世界を信じて見守るための要諦です。活かされているいのちを輝かすためにも、子ども達の未来が明るく仕合わせになるためにも、自分自身の心がけがすべてを決めてしまいます。
心を亡くしている人が多いからこそ、私たちは「ほのぼのと働いて」いきたいと思います。教えていただいたことを実践し、また御恩返しに生きていきたいと思います。ありがとうございます
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「蒔かぬ種は生えぬ」「蒔いた種は刈り取らねばならぬ」といいますが、もっとも注意すべきは、「種を選ぶことは、花を選ぶことである」ということです。コスモスの種を蒔けば、いくら水のやり方を変えてもヒマワリの花は咲きません。日々、感情的にいろいろな種を蒔いてしまいますが、「いま蒔こうとしているこの種が、いつどんな花を咲かせるのか?」に思いを馳せるだけの余裕が必要です。その余裕が、「豊かさ」に繋がるのではないでしょうか。少なくとも、蒔く種を主体的に選べるだけの余裕を持っておきたいと思います。
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「ほのぼの」という表現、そして日本語の古語には今あまり遣われていないいろいろな表現があるとおっしゃっていました。ドイツでも移民や難民を受け入れていますが、まず母国語となるドイツ語を教えると聞いています。私自身もそもそもある豊かな表現を知り感じることは、心の種蒔きに繋がるのではとお話を聞きながら感じました。心豊かにをテーマに学びを深めていきたいと思います。
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あの時、あの場で、あの状態で「ほのぼの」という言葉をいただいたのには大きな意味があったのだと思います。言葉のイメージとしては柔らかさを感じますが、実際のお姿や雰囲気から伝わってきたものは言葉通りではなく、もっと深みがあるものだと感じました。昨日の「元気」もそうですが、言葉の幅を縮めてしまっているのもまた自分の刷り込みなのかもしれません。広く深くものを観ていきたいと思います。
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言葉の深さと合わせて、生き方の深さを感じ、同じ深さでの理解には程遠いですが、日々の生き方や行動の原点に感謝の心を忘れずに、凛と瑞瑞さを保って行きたいです。振り返りの中や、未来への祈り、仲間への祈り、お客様への祈りの中から、仄々さを味わって行きたいと思います。