見守る保育には保育計画をたてるのに「DO→SEE→PLAN」というものがあります。一般的には「PLAN→DO→SEE」といって保育計画を立てて行われます。
そもそも見守るという言葉は、操作するのではないのだから相手の主体性に寄り添うものです。寄り添うのだから自由な環境の中で主体性を発揮した人に対してそれをどのように発展させていくかということが重要になるのだから先に相手をコントロールすることは見守ることにはなりません。
言い換えれば、コントロールしないということです。
これは生き方にも顕れてくるものです。いちいち先々に起きることをすべてコントロールできると考えている人は、偶然を排除していくような計画を立てるものです。問題が起きないようにと操作していけば、体験することが味わえなくなっていきます。しかし実際にコントロールしないと委ねていく人は、発生する出来事はすべて必然であると思っていますからそのことに寄り添いながら体験や成長を味わっていくことができます。
つまり極端ですがこれを人生に置き換えると、人生を感じるのにおいて、天命に従い味わい深い方を選ぶか、それとも天命に逆らってでも自分の思い通りにしていくかということにまで生き方を観るような気がします。
見守るという生き方は、そのものが持つ天命をよく見てその天命を活かすというその人らしさを大切にするような生き方のように私は感じています。誰しも人は一人ひとり意味が異なりますし、その発生する出来事は自らの本心が選んで訪れる出来事であり必然ですからそこにわざわざ逆らうのは不自然になっていきます。
委ねるという心境は、「来たものを選ばない」という覚悟でもあり、「有難く引き受けます」といった受け容れる覚悟でもあろうと思います。体験させない人生というのはこれの逆のことで、無難ばかりを求めてしまうかもしれません。
教育や保育というものは、その人の無二の体験をどう見守るかにかかっているようにも感じます。その時の導き方は導く人の生き方がお手本になり、それを見た人が模倣したり真似をして自分の中に道理を獲得していくように思います。
知識を教えることは委ねたり信じたり待ったりすることとは異なり、操作や管理するためになってしまえば本来の自立や主体性は引き出されないように思います。操作しない、管理しないというのは本人の意思を尊重して委ねることであり認めるということにつながっています。
本当の自分との付き合い方にまで発展していく議論ですが、本来の自分で生きようとする人たちにはこの「見守る」ということはとても大切なキーワードになっているように感じます。一人でも多くの人たちが、本当の自分自身に目覚め、そして自分らしくいて自分を社會に役立てる仕合わせやご縁の有難さに気づけるように、社業に邁進していきたいと思います。
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「委ねる」と辞書で引くと、すべてを任せると出てきます。その両極端感じると、一段と難しさを感じます。ただ、自分もそうであり変化の途中は色々な感情が伴うからこそ見守りが必要であり、自分の体験が活きるのは自らが変わろうとする入り口のように感じます。難しいと嘆く前にやりながら改善していきたいと思います。
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「人生には何が起きるかわからないから、用心して取捨選択しなければならない」と考える人は、与えられたものを受け取るかどうか悩んでしまいます。ほんとうは、必要があって与えられていても、受け取るのに「自分の理由」が必要になるのです。結局、選ばないといけないのは、その前提というか背景を「信じていない」ということです。必要があって自分に与えられているものを信じられない人は、意味があって相手に与えられているものも認められないのでしょう。だから、コントロールしようとするのかもしれません。
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敷かれたレールの上を歩くことや周囲の意見に流されて生きるのではなく、自分で決めていく人生を大事にしたいと思っていますが、ややもするとそれは自分都合で選び決断する人生にもなりかねないことを感じます。何が本当の自分の選択であり決断であるのか?「委ねる」という言葉の意味するところ、その深さを、もっと体験から気づき掴んでいきたいと思います。
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セミナー帰りの電車での一言が心にずっと残っています。「その行動は周りの為になるか。みんなを幸せにするか。」その観点から生きていれば、do see planになり、気づかずとも自分の為ばかりに生きているときはplan do seeになるのだと学ばせていただきました。自分の天命や使命は、周りのお陰様で見つかり、周りのお陰様で全う出来るのだと信じ、我を手放して行きたいと思います。