人は聴くということができるようになり素直を磨いていくものです。聴くというのは、保身があるほどにできないものです。思いやりや真心の実践をする人は、相手がどれだけ自分のことを思ってくださっているのかを自覚しますが自分勝手な人は自分を頑なに守ろうとして自覚することもありません。言い換えれば、人は素直でなければ周りの善意を受け取ることができません。
善意には色々とあります。
人は価値観が異なりますからその人にとっての善意はその人にとっては迷惑だったりすることもあります。しかし本当の善意は真心ですから、それは有難く感謝のままに受け取ることが聴くということです。自分の都合ばかりを優先しては、他人の話が聴けないではそのうち誰もその人にアドバイスやヒントを与えてくれることもなくなってきます。
自分のペースでやりたいというのもあるのでしょうが、本来の自然は自分のペースなどに合わさせようとはせず自然の変化に自分の方が合わせていくことが素直に順応するということです。自分を変えるには、周りの自然の声や周りからの善意や真心を受け取る感性が磨かれていなければなりません。その感性はどのように磨くかといえば「聴く」ことですが、この時の「聴く」は言い換えれば感謝や御蔭様、報恩の実践のことです。
その逆の「聴かない」とは固執や頑固、こだわりが強すぎれば傲慢になり調子にのることで謙虚さを失い、素直を忘れ不徳を行いますから孤立していくように思います。
「聴く」というのは自分から積極的に順応し変わるということです。
そして私たちの言う「聴福」、つまり聴いて福にする実践というのは素直さを磨き謙虚を高める行為です。福にできるのは、善いことへと転じようとする善意の転換ができるということです。善意は他人によって様々ですが善意を受け取る感性によってそれをさらに善きものへと昇華していくのは自分の主体性と素直さが必要です。
自分から変わろうとしている人は常に聴くことができ、自分から頑固に我執に固執する人は受け身になっているから聴くことはできません。変わる機会を頂いているときこそ、思い通りにならない時です。
そういう時は、自分の耳触りがいい言葉ばかりを望むのではなく丸ごと受け容れる覚悟を決めて何が間違っているのかまず矢印を自分に向けて反省し、日々に内省を深めていくことで聴く心を開いているようにしていくのがいいように思います。そもそも心は閉じたり開いたりを自分勝手にしていては本心には出会えませんから、心は常にオープンであることを自覚している素直さを一生持ち続けたいものです。
聴くことは変わること、聴けない自分にならないように、常に心をオープンにして何でも転じて一円観を育てて未来の子どもたちの御役に立てるように今を精進していきたいと思います。
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先生方をお話をし振り返った時に、何でもっと深く聞けなかったのだろうと思うことがよくあります。そう思うと次に備えることができます。ただ、怖いのが聴いた気になっている時です。心の寄り添いについて今日話がありましたが、どんな話をしたかよりも、寄り添っていたかを肝に銘じたいと思います。
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「聴かない」ときには、いくつか理由があるようです。ひとつは、「聴く価値がない」あるいは、「聴く必要がない」という「慢心」です。最初から聴こうともしません。そして、もうひとつは「聴きたくない」という「自分都合」です。自分にとって都合の悪いことは、黙って聴けないのです。その人に必要なメッセージは、どんなタイミングで、誰から伝えられるかわかりません。素直でないときは、せっかくのメッセージを聴き逃してしまいます。自分の価値判断で選ばないように注意したいと思います。
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以前、「耳が痛い声、聴きたくない声こそが大事なメッセージだけれども、実際のところ最も大事なメッセージは聴こえていないふりをしているから気をつけなければならない」と教えて頂きました。だからこそ、瞬間瞬間の内省と、その日の終わりの内省でその「聴こうとしない自分自身」との対話やすり抜けていく声を見つけようとしますが、結局のところ、耳が痛い声、聴きたくない声を聴き、行動に移していかなければ、聴こうとしない自分自身は変わらないのだと気づきます。まずは目下、その有難い声に従っていきたいと思います。
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諫言は一番槍に勝ると言いますが、主君ではないにしろ人は誰しも聴くことが難しくなっていき、益々その価値は高まるというのは昔も今も変わらないのだと思います。どんな思いで言って下さったのか、またある意味ではそれは天からの言葉として受け取った方がいいのかもしれません。聴福人のまた新たな一面が感じられました。みちのりは遠くても一足ずつ踏みしめていきたいと思います。