先日、久しぶりに高見のっぽさんの動画と記事をニュースで拝見しました。小さい頃から、テレビ番組の中でとても好きだったものです。いつものっぽさんの工作する様子や、相方のごんたくんとカラダを使って表現する様子に食い入るように魅入っていたものです。
最近のそのニュースで、のっぽさんが実は工作が苦手だったと知り驚きました。そういえば、工作が上手だったというよりは苦い顔をしながら一生懸命に作る様子に見入っていたのだろうとあの頃の自分の心を思い出しました。全てを受け容れて挑戦する人の姿というのは子ども心に勇気づけられたものです。
その動画と記事の中でまた心に遺る話がありました。そこには「大人ぶっていませんか」というタイトルです。そのままご紹介します。
『子どものことを「小さい人」と呼ぶ。自分が一番賢くて鋭くてきれいなときはいつかと考えると、5歳。大人が「子どもだからわからないだろう」と侮った言動は、ちゃんと見透かしていた。「そのつもりで小さい人と接するから、真剣です。あんな大人にはなりたくもない」』
とても共感する文章で、子どもだと上から目線というのは私も大嫌いです。それにこれは子どもだけではなく、大人ぶるや、偉ぶる、他にも格好つけてはこのぶるがつく「ブルブル」する人は、傲慢で相手を侮っている言動ではないかと思います。自分の中にある子ども心や相手の子ども心は大人になっても見透かすものです。子どもの前で恥ずかしいことをしないように○○ぶろうとする時は特に注意したいものです。
そしてこうも言います。
『「子ども目線」という言葉も大嫌いだ。「訳知り顔で『子どもの目線に下がって』なんて、あほらしい」。「小さいときを忘れ、大人ぶって上から言っていませんか。そんな時は命令でなく相談してごらんなさい。小さい人は、とんでもなく賢いんですよ」』
大人ぶるということが如何に自分を見失っていくことかが分かります。周りより優位に立ち、物知り顔で我が物顔でいることは子ども心を見失ったことです。相手を尊重するということは、自分自身を尊重することです。そして自分自身でいるというのは、自分の持ち味で生きることを優先しているということです。
社會の中で自他を活かすために自分の持ち味を活かすことは、大人ぶらないことです。周りに対して尊敬の念で生きること、上や下をつくらないこと、尊重して一緒に学び合うこと、語り合う事です。こういう人として当たり前のことを実践していくことが、子どもにとっての大人のモデルになるのであろうと感じます。
あの頃ののっぽさんは自分の心の中に今も一緒に住んでいます。
大人になって改めて見て、自分も大人ぶった大人にはなるまいと自戒の念が強くなりました。子ども第一義の実践を、積み重ねていきたいと思います。ありがとうございました。
コメント
思春期を迎えた頃、子ども扱いされたくない、自分で何でもできると大人ぶっていたことを思い出しました。そしてそのうち、自分で何でもできると錯覚するようになった頃、子どもの心に思ったなりたくない人大人になってしまっていたように思います。いつしか身につけた刷り込みに実践するたびに気づき、葛藤の連続ですがそのたびに、どんな大人でありたいだろうと振り返る機会になっています。偉く賢く知識を身につけるよりも、気持ちに寄り添っている自分であるかを大事にしていきたいと思います。
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「上下関係では、ほんとうの人間関係は成立しない」と言われます。しかし、「親子」「先輩後輩」「上司部下」という「社会の仕組みとしての関係」が存在し、そこに、「年齢」や「経験年数」というモノサシが入ってくると、どうしても「上下の力関係、役割の関係」ができてしまいます。このモノサシを超えて、「横の関係」で生きることは非常に難しいことですが、「ひとつの魂」として尊敬し、尊重し合って付き合えるよう努力したいと思っています。
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理不尽だと思えることが多く、こんな大人にはなりたくないという強烈な思いから、そうでない自分になろうとしてきたのかもしれませんが、否定から入った思いと言うものは形を変えるだけで、結局は同じ姿に行きつくようにも思います。自分の中の子ども心が何に今もとらわれているのか?今、自分が親という逆の立場をさせていただいているからこそ「小さい人」から学び直していきたいと思います。
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人を命令で動かす言動は、自分にも同じ言動をしてしまいます。子どもに命令ではなく、お願いするのも普段の会話の中でどれくらいかと思うと、やはり自分の子ども達に対する傲慢さが見えてきます。日々の暮らしの中で、自分達親がどうありたいのか、行動を変えながら実践して行きたいと思います。