昨日、石見銀山にある他郷阿部家にお世話になる御縁がありました。暖かい真心のおもてなしに懐かしい原風景を感じました。石見銀山は世界遺産にも認定されていますが、かつての風土の中にある暮らしがいつまでも遺るというのは先祖たちの生き方が遺っていることでありそこに日本人の心に触れると安心するのは原始の魂に触れるからかもしれません。
神話の昔から、何を大切にして生きてきたか、そして親祖たちが子孫へ譲ろうとして来たものが何か、「根」に触れるということは初心を伝承することです。初心は伝える側と承る側がいて存在しますから、どのような初心を持っているかが伝承の本質です。
昨日はここで不思議な体験をしました。
巷には、物が溢れ物が氾濫する時代だとも言われます。しかし本来は、物は有難い存在であり物は魂が宿る存在です。その物に魂が宿ればその物は語り始めます、それを物語と言います。
物語を語るものは全て伝承者であり、それを聴く私たちもまた伝承者です。生物非生物に関わらず、語りを聴けるというのはその真心に日本古来からある大切なものを譲られていることに気づきます。言い換えれば御縁のつながりというのかもしれませんし、さらに言えば縁結びの心、道理だと「循環の理」と呼んでもいいのかもしれません。
私たちは物を大切にすると思う時、物より高いところで語られることがありますが実際は物と同じところで物を大切にしているかどうか、それは無我の境地というか無から有が生まれそこから空間が出来上がるように無に没頭することで物の美の真価を味わうように思います。
つまり物を大事にというのは、自物一体の境地のように思います。勿体ないという意味も、そのものに入りそのものとなるという「ものづくり」の真心です。
物事、物語、物造、そのものが何を語るのかを素直に聴ける感性こそが空=間によって磨かれていくのかもしれません。「美しい」と感じる心は、空間の美、勿体ない中にこそ存在するように思います。
まだ触れたばかりでこれからの実践になりますが、ここでの暮らしの生き方を見習い、実践を学び直していきたいと思います。
また最後に、石見銀山の風土から山と暮らし、山を見守り、山と暮らしてきた歴史を直感的に感じ、”お山と語り合う”ことの大切さをはっきりと気付かせていただきました。
有難うございました。
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いつもよりもゆっくり時間が流れるようで、ただ寝るのがもったいない、もっとゆっくり過ごしていたいそう感じるあっという間の一時でした。あっという間でしたが、自分自身を振り返ると日頃生活の中で、もっと活かしていけることがあるのではと感じる場面が何度か浮かびました。そして、これまで実践、実践と思っていたことは生活であり、暮らしを見直していることを表していることにさえ感じました。ここで感じた美しいものを、自分の心の中でも育んでいけるよう、ありがとうと何度も伝えていきたいと思います。
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「モノの扱い方に人柄が現れる」と言いますが、自分の波動が乱れると、「モノ」の扱い方も乱れます。また、その背景には、「モノがモノとしか見えない、モノとしか扱わない」という価値観があるようです。唯物的になるほど、モノの価値がわからず、声を聞くこともないので、雑な扱いになるのでしょう。結局は、選んでいるつもりで、モノに選ばれているのかもしれません。自分が、どのようなモノに選ばれているか?!見直しておきたいと思います。
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暮らしというその場の中に身を投じてみると、実際に感じる感覚は不思議なものがありました。人が作り出したものではあっても、一つ一つに思いや心が籠っている為か「人工」という言葉ではなくむしろ「自然」という言葉の方がしっくりくるように感じました。耳を澄まし目を凝らすことが少なくなったというお話がありましたが、暮らしの実践の中で感じる心を研ぎすませていきたいと思います。
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モノの気持ちになって考え、物が自分であると感じられるようになるという事は、自分からものを見ているのか、地球から自分を見ているのか、どちらからも物が見えるという事なのだと学びました。モノが喜ぶという事は、自分も喜び、地球も喜び、またその他人間も喜ぶという事なのだと感じます。まだまだ自分自身はその境地にはたどり着けませんが、どんな方も、何十年とかけて、必死に自分とモノとを一体に考えては行動し、振り返り、と積み重ねてきていらっしゃったからこそ、自分自身もその実践と積み重ねを大切にしていきたいと思います。