もともと日本では包丁という言葉を料理とし、料理する人を包丁人と呼ばれてきた記述が鎌倉時代の記述に遺っているそうです。これらの料理の定義は「切る」という文化であり、この「切る」という技法が、日本料理の原点であり、生ものをはじめ、新鮮なものを新鮮なままに料理する感覚の世界を大切にしてきたとも言えます。
日本料理で割烹とありますが、これは「割主烹従(かっしゅほうじゅう)」であり材料を切り割いてそのまま食べる生ものが主で、煮たり焼いたりするといった火を使う料理は従であるという考え方のことです。
それだけ「切る」という技法は、日本料理の代表的な文化です。そしてその「切る」ということを可能にしたのが日本刀であり、和包丁なのです。これは世界でみても、とても珍しい調理法で日本には新鮮な山の幸海の幸が豊富にあり、その「いのち」を傷つけないように壊さないようにとそのまま料理することに重きを置きました。
物のいのちを観るだけではなく、すべての生きとし生けるものたちのいのちを大切にしてきた日本人だからこそ、ただ食べるではなく、神事として食べるということを行うからこそいのちを尊んできたように思います。
今の時代は、腹を満たせればいい、慾で食べられればいいと、飽食の時代ですから食べ物も粗末にされ、あまりそれらの料理に「切る」ということの美味しさを実感する機会も少なくなってきましたが、昔の人たちは実家のよく研ぎ澄まされた和包丁を用いることで「美味しい切れ味」を知っていたように思います。
切れ味次第で、美味しくもなればまずくもなるという感覚世界を知っていたということでしょう。今は切れ味といっても、通じない世の中になりましたが本来の切れ味が分かるからこそ物の尊さ、味の美しさを知るのでしょう。
料理を今までもたくさんしてきましたが、この「切る」ということが料理であるという定義ははじめて知ることができました。日本人の料理に対するこだわりが、一体何と通じているのか。改めて、先祖たちの産み出した道具のすべては一つの理念から出来上がっていることに気づきました。
子どもに遺していきたい道具、子どもに譲っていきたい道具とは何か、これから道具を発明するときの大切な姿勢を学び直していきたいと思います。
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包丁人は現代に生きる武士であり、それも認められ和食が無形文化遺産に登録されたのではと、勝手な想像が浮かびます。そして、包丁や研ぎから考える見守る保育、ということもあるように思います。今行っていることがいつかきっとどこかでお役に立てるよう、味の美しさをその時、味わえる自分であっていたいと思います。
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「切る」というのはどういうことか?まだ、「モノが切れる」ということが、どういう現象であるかが説明できていない、と聞いたことがあります。「切られる方」からすると、変な切り方は傷つけられるのと同じです。しかし、「霊刀」と言われる包丁で、感謝心のある料理人が切ると、「切り口」は決して傷にはならないのでしょう。それが、「美味しさ」の違いになっているのではないでしょうか。
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クルーから新しい包丁がもの凄くよく切れると聴いて、手慣れていない自分などにとっては一瞬の油断も出来ない、改めて料理はいのちを扱う事であり命がけなのだと感じました。切り口は傷みと痛みににも関係しているのだと思うと、日本刀の切れ味はまた相手への思いやりや敬いの気持ちもあったのかもしれないとも思います。日本人の持っていた感覚、様々な角度からそれを知っていける一年にしたいと思います。
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食べ物の命に対する意識がどれ位あるのか。目の前にある食材をモノと見ているか、命と見ているか。そう振り返ると、素材の声を聴こうとしていない時は、全部モノと見ている事に気づきました。命に見える時は、透明な何かを感じ、料理を作るというよりも、邪魔をしないように素材に聴こうとしますが、その姿勢をまずはいつも持つ事を大切に、今日も暮らしたいと思います。