先日から包丁研ぎを深めていますが、歴史を辿れば日本刀にそのルーツがあることに気づきます。世界でもっとも切れる日本刀が戦後に失われてから、だいぶ時が経ちました。
それまで当たり前であった研ぎの世界も失われ、そして鍛冶の世界も同時に失われていきました。西洋から、安価で丈夫な大量生産の刃物が輸入され日本の製鉄技術もかつての玉鋼のような材料も失われどうしても外国の刃物の方が丈夫で長持ち、そしてよく切れるというようになってしまったそうです。そしてそのうちお金儲けが第一になり、善いものを造ることの優先順位が下がりますますそれまでの日本の文化であった鍛冶や研ぎは失われていったと言います。
どの時代も買う人たちの心理がものづくりの人たちに影響を与え、ものづくりの人たちの心理が買う人たちの心理になっていくのは同じです。買う人たちが安価ですぐに買換えできるような便利なものを求めれば、ものづくりの人たちもその要請に応えてしまい安物で便利なものをつくります。またものづくりの人たちが金儲けに走れば、買う人たちもまたお金だけのモノサシでものを購入するようになります。世の中は、その時代の使い手、作り手の生き方が道具に顕れてくるのです。
以前、「刃物の見方」(岩崎航平著 慶友社)の中で、「日本刀は平安朝時代のものが最高で後の時代はそれに近づけようとしているだけである」という話を読んだことがあります。もしも昭和の名刀だと威張っても江戸時代だと三流くらいで平安朝時代なら十流か十一流位で刀鍛冶の数にも入らないといいます。そこにはこう書かれます。
「刀に関する科学だけは何も進歩していません。進歩しているのは電子計算機だの、ナイロンだの、ミサイルだの、原子爆弾であって、日本刀に関する科学は、進歩どころか時代が下がるに従って退歩して、今日が一番衰えているんです。だから今の人はもう少し頑張れば、もっと古いところまでは到達できるでしょう」
これは西岡常一さんの宮大工の世界でも同じ話を聴いたことがあります。法隆寺を建てた時代の大工は大変見事であったと、その上で使っている道具や釘もまた最高のものであったと、それに近づくために組み直して学び直していくのだと言います。
先人たちの智慧が如何に優れていたか、そして後人の私たちが進歩と勘違いしている現実をどう見るか。道具や智慧については先人に敵うものは何一つなく、技術が進んで少し似せることができてもそのものになることはありません。
日本刀においては、刀の原料の玉鋼の作り方が今と全く異なるといいます。平安朝時代の刀の原料の玉鋼がどうしても同じように作れないそうです。その時代、どこでその最高の砂鉄を採掘したのか、そしてどのように玉鋼を製造したかが全く分からないと言います。同じように最先端の科学をもって同じように復元しても決して同じにならない、ここに退歩があるということです。
私たちは知識をつけてはあらゆるものを見知ったかのように錯覚します。しかしその分、昔の人たちは非常に鋭敏な感覚と直感をもって物事の本質を観得ておりました。
そしてかつての時代は、売る人も買う人も、そこに深い洞察力や哲学があり、今の時代の価値観のように安価で便利なものを必要としませんでした。そこには崇高な精神や理念があったことは道具が語っています。
時代を超えて新たに暮らしの道具に触れる中で、古民具や骨董、その他の文化芸術の中に、私たちの先人たちみんなの生き方や理念が随所にちりばめられています。なぜ敵わないか、そこには生き方が敵わないのです。
私はその時代の人々の生き方が「かんながらの道」を歩み、その理念が自然への畏敬を忘れずその精神が心魂がブレずに盤石であったからこそ、それらの至高の道具を産み出し扱うことができたのではないかと思います。
人格を道具が超えることもなく、道具を人格が超えることもないのです。自他一体のように、人道格具は一体であるということです。
もう一度、先祖たちが遺してきた偉業を省みつつ、この時代をどのようにしていけばいいいのかを考え直したいと思います。後輩に後人に笑われないないような生き方を譲っていきたいと願います。
子ども達のためにも真摯に学び直していきたいと思います。
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教育において世界で参考にしているのが寺子屋や藩校と聞くと、そうか!やっぱりそうなのかと、そこに近づく学びに自信が湧いてきます。学校で習うだけが学びでないと思うと、生活を見直すことは暮らしを見直すことでもあり、その一つひとつが生き方に繋がっていることを感じます。そして、セミナーでの実践発表を聞き、改めて保育の奥深さに驚くばかりです。奥が深いからこそまた惹かれるものがあります。実践を続けまた新たに気づきを得られるよう学んでいきたいと思います。
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「ものづくり」の思想が、時代によってどんどん変わってきています。いつの間にか、「ものづくり」は「経営」の一部になり、その結果「効率的」であることが求められ、「売れるもの」が優先されてきました。こうして「効率」と引き換えに、大事なものが、時代とともに後ろに追いやられてしまっています。人は、その人間に相応しいものを使いますから、使っているものを見ると、その時代の人の姿がわかります。今の時代は、後世からどのように見えるのか?!道具や生活から見える自分たちの姿を見直してみる必要がありそうです。
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「矢人は豈函人より不仁ならんや」の言葉がふと頭を過りました。いのち(後世)を傷つける仕事をするか、それを守る志事をするかは自分自身の心次第でもありますが、子ども達の未来を願いながら生き方・働き方を追い求められる今はとても有難く倖せなことだと感じます。また暮らしについてはまだまだこれからですが、心を込めて作られた物の中で丁寧に生きることは、ただその中にいるだけで自然と徳が高まるように思えます。どのようにでも生きられる時代だからこそ、徳が高まり魂が磨かれるような後世の為となる生き方を目指していきたいと思います。
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簡単便利を優先し、「人間性」を失っていってしまっては、それこそ、「退化」なのだと感じます。先人の智慧をただの簡単便利に使ってしまうことも同じことなのかもしれないと、危機感を覚えました。智慧とは人間性が伴ってこそであり、日々自分自身を研いでいく事の中にあるように受け取らせて頂きました。本来の目的を忘れた日々の挑戦や物事の追及にならぬよう、初心と目的を強く思い、歩んでいきたいと思います。