先日、正論について考える機会がありました。正論とは、正しい意見、道理に適った言葉といい、確かに正確に物事を言い当てるものです。特に教える仕事をしている人たちは、この正論を吐くことで周りを説得したり納得させようとするものです。
しかし正論をいくら聞いてもその正論通りやってもうまくいかないとなることがほとんどです。正論は実際に現場で実践することができず、正論通りにやったからといってそれが納得されるかというとほとんどそれはありません。
例えば、ある人が問題を抱えていてそれがうまくいかないと相談にのっても共感もしていないのに正しいか間違っているかだけを見て答えてもそれは問題の本質を解決するわけではないからです。
人は時として、問題を解決しなくても共感しているだけで解決していくことがあります。
以前、村でニコニコと笑いながら頷いている御爺さんが村人の悩みを解決していくという御話を聴いたことがあります。村の人から尊敬されている御爺さんが亡くなり、はじめてその御爺さんが聾唖の方だったと知ってみんなが驚くという話です。その御爺さんが隣でじっと話を聴いてくれてニコニコと頷いてくれることで相談者はみんな自分で問題を解決していったという話です。これは江戸時代末期の名僧「良寛さん」にも似た話がたくさん残っています。喋らず黙って、相手の言うことに耳を傾けるだけで相手が自然に気付いて変わっていったと言います。
学識の比較競争刷り込みの中で、刷り込まれていると勝ち負けや正否に囚われ肝心な共感するということを怠ってしまう人が多いように思います。それはきっと机上では人の心までは共感できないからです。本来、正論よりも優先するものは常に思いやりであり、思いやりがあるから人間はその思いやりによって助け合い認め合うことができるように私は思います。
正論を述べては相手を打ち負かし、自分の正しいことを証明してもそれで現場が何か変わるわけではありません。かえって相手の自信と自己肯定感を奪っているだけで、その教える人は有名になって優越感を持てても実際困っている人たちはそれで解決しましたとはならないことがほとんどです。知識の持つ刷り込みに気付くためにも、あまり自分を特別視せず知識を用いて人を上下で見ないことが何よりも正論の刷り込みを打破する方法ではないかと思います。
二宮尊徳に「至誠と実行」がありますが、思いやりを行動することが何よりも現場の問題を解決するといいます。そしてそれはまず「傾聴」することや「共感」することが何よりも優先されると私は感じています。
自分を後回しにしてでも相手の話を聴いている人や、自分のことは気にせずに相手のためにと行動する人は「至誠と実行」している実践者の風格を感じます。世の中の刷り込みに巻き込まれて頭でっかちに頭ばかりを働かせようとせず、心で動いて頭で考えるように思いやりと行動を大切に日々を精進していきたいと思います。
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「正しい」ことが、必ずしも「役に立たない」のであれば、その「正しさ」は意味を持ちません。「理屈の正しさ」よりも「実践の正しさ」が重要であるというところを、キチンと押さえておきたいと思います。うまくいかない人の話を聞くと、「うまくいかない理由が分かってしまう」ということがよくありますが、その姿勢が既に、話をちゃんと聞けていないということなのでしょう。その人の「これまで」にとらわれず、「一般論」にもとらわれず、キチンと向き合い、思いやりだけで寄り添えるようでありたいと思います。
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知らず知らずのうちに正論をかざし、さも分かったかのような態度を取っているのではと思うところがあり、一部を知り分かった気が刷り込みを生むのだと感じます。刷り込みの悪循環に陥る前に、村の御爺さんのように真心と共感を大事にしていきたいと改めて感じます。ありがとうございます。
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仲間の働き方やその姿に、自分が本当は何を扱っていたのかということに気づかせてもらったように思います。そしてそれは自分自身がそのものをどれだけ大切に思っているのかによるのかもしれない、とも感じました。機会をいただいているからこそ行動的して、かもしれないを確かめていきたいと思います。
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相手に共感しようと思っても、聴かなければ共感は始まらず、聴いても自分も一緒に実践しなければ共感は始まらず、やっても聴いても、共感できた‼‼という完璧さはないのだと感じます。分からないからこそ、実践し続けるのだという今日のことばをお聞きして改めてそう感じます。分かる必要がなく、実践し続ける必要があるものが、道なのだとぼんやりと感じます。正しさやカッコつけよりも、実践し続ける覚悟を胸に秘めて歩みたいと思います。