現在は誰かを比べたり誰かの目を意識したりと常に自分を何かに合わせなければならない窮屈な世の中になっているとも言えます。個性のことを障害といい、天才のことを精神病と呼び、人と異なる資質を持つ人のことを奇人変人だと偏見で差別したりします。
本来、みんなが周りと同じ姿であるほうがおかしな姿であり異なるのは御互いを活かし合うために必要な自然の性質ですから持ち味を御互いに出し合って協力して生きていくのがこの世の中の摂理です。
今は一斉画一にすべて同じものを良しとして、同じものを目指され、如何に平均から外れないかということを押し付けてくるものです。学校などは最たるもので、みんなと同じことができないことを恥ずかしいこととし平均の中でもっとも上位にあるものを優秀であると定義して技能を教え込んでいきます。
能力は別に学識や体力だけが能力ではなく、素直であること謙虚であること、また自分らしくいられることも能力の一つです。この能力のそもそもの定義とは何か、それはその人が「もっとも持ち味を活かしている状態」のことを言うと私は思います。そして私は能力の本質は「自分らしくいられること」がもっとも能力を自他に活かしていることであることだと思うのです。
その人がその人らしくいられるというのは、周りもその人らしくいられることです。これは御互いの持ち味が存分に発揮されている姿であり、それらの能力が相乗効果によっ御御いに役立っているということです。
人間の仕合せというものは、御互いに仕い合うことです。つまりは誰も不必要としない、そのままで役に立っている社會の実現のことだと思います。人道の平和とは、御互いが持ち味を活かし合って仕合わせを築くことだと思います。
今のようにこうでなければならないと押し付ける窮屈な社会での中で、その人らしくいられないことで心を病み苦しんでいる人たちがたくさんいるように思います。自分が此処に居てもいいという心地好い居場所があるかないかでその人の人生の仕合せは決まっていくようにも思います。成功か失敗かではなく、金持ちか貧乏かどうかではなく、仕合せかどうかを皆で見つめる世の中にしていくことが道に入っていくことのように思います。
あるがままの自分でいいと思えるためには、あるがままを受け容れてくれる社會が必要です。そしてその社會は徳によって実現することは自明の理です。人が思いやり助け合い御互いの持ち味を活かし合う世の中は、そのままでいいと受け容れてくれる暖かい場を一人ひとりが築き上げていくことに由ります。
引き続き子ども達のためにも子ども達の個性を伸ばし、その個性を受け容れ、みんな違っているからこそみんながいいのだという見守り合う社會を社業を通じてこの世に広げていきたいと思います。
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学校にいるとどうしても点数が付きまといそれが全てのように思ってしまいますが、測れるのはほんの一部なのだと今は感じられます。内省をして気づく価値、振り返って味わう豊かさ。誰かからの評価で感じるのとは一線を画すものがあります。長所を誉められることは嬉しいことですが、それを実際に自分で実感するとまたやってみようと思えます。自分の気付いていない長所に気づき伸ばして頂いたことに感謝し、自分も誰かのその人らしさを引き出せるような自分でありたいと思います。
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「価値観」が多様化しているとはいえ、まだまだ世間や企業が、一斉画一的なモノサシで「個々人」を評価しています。この「偏ったモノサシ」が、人を「裁く」発想になっているのでしょう。また、「努力すれば、みんなできる(できないのは努力不足)」という迷信が「適材適所」という仕組みを邪魔しているようにも感じます。不適所で苦しんでいる人たちをなくすには、「組織」そのものの在り方の見直しと生かし合う「働き方の発明」が必要なのではないでしょうか。
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あるがままを受け入れ、皆が矢印を自分に向けて一つの理念を想う時、祈りに似た場が生まれるという事を先日の理念研修で学び、また家庭でも似た体験をさせていただきました。聴福人として何を想い、何を祈り、何を実践するのか。常に矢印を自分に向けて、自分らしさと手を繋いで行きたいと思います。
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こうでなければならない、の中にいると「持ち味」など考えることもなくなっていくように思います。特に自分自身が「あるがままの自分」を受け入れてあげることが出来ない状態の時ほど、見えない何かと比較したり自らを追い詰めてしまっていることが多いようです。「あるがまま」があるがままでなくなっていることに注意して、自分の活かし方を大事にしていきたいと思います。