自分を磨く

人は自分の慾に打ち克つことで覚悟を磨いていくことが出来るように思います。最初から覚悟がある人がいるわけではなく、何度も何度も修練を積み重ね次第に自我欲を手放していく中で信念が醸成されていくように思います。

つまり何より大切なのは己に克つことで自らを「磨く」ということです。磨けば磨くほど光って観えるのは、真意や信念、心がはっきりと顕れるからかもしれません。覚悟のある人の話を聴けば、かつて過去にその人が大変な出来事を乗り越えて挑戦し大切な目的や理念を優先して自らに打ち克った歴史があります。其処に至るには何度も勇気を出して己に打ち克つ挑戦の磨き痕がその人に残っています。

人は嫌だな、辛いな、面倒だなと、すぐに向き合うことから避けようとし己に克つことから逃げようとします。その理由は、不安や煩い、憂いと向き合いたくないからです。その時、不安が嫌だからといつも逃げていたら覚悟はいつまでも磨かれることはありません。己が先に立ってしまい、砥石や鑢で磨くのがメンドクサイと遠ざけていたら磨きようもありません。

実際には、人間は生きていたら必ず出来事は起こります。もしも一念発起して目的をもってしまえば、それまでは避けて通れた問題も避けられなくなってしまいます。それが嫌だからと何でも適当に流していたらそのうち逃げ癖が沁みついてしまうものです。言い訳ばかりをしては、不安と向き合おうとしない、何でも嫌なことは先延ばしでは覚悟も何も磨く前の段階で終わってしまいます。

まず覚悟を決めるというのは、何を裏切れないか、何を大切にするか、何を最も人生の優先順位にするのかを自覚することです。自覚したらあとは自然発生してくる日々の選択を自らが苦しい方を選べるか、自らが大変な方に挑戦するか、不安と向き合ってでも勇気を出して実践できるか、そういう自然の砥石や鑢で自分磨きをしていくのです。

覚悟という字は、どちらも「さめる・気づく」という意味を表しています。つまり目が覚めるかということ、己という我を手放しその中の心に気づけるか、自分の信じる道に気が付くかということのように思います。

いつも自我慾に負けて、真我が出てこない日を送っていたら本当の人生の意味や自分の真実の価値に気づかないままこの世を去ってしまうかもしれません。自我を満たす日々ではなく、己に克って真我に生きるということが自分を磨くということの意味のように私は思います。

そして人は常に大切なものを守りたいと行動するとき強く優しくなっていくようにも思います。人が真我に目覚め、真我のままに真心を実践するのなら世の中は平和安泰の世界、福世かなものに変わっていきます。

自分が覚悟を決めて行動すれば、周りが仕合わせになっていく理由は真我で人に接し御互いに覚悟を磨き合うやしていくことができるからです。そしてその人によって勇気が沢山いただけて自分も挑戦する勇気に変わっていくからです。人生で本当の仲間に出会うのも自分自身の覚悟ですし、本当の人生に出会うのもまた自分の覚悟です。

まずは大切なものを裏切らないように自らを律して取り組んでいく日々を内省によって高めていくことのように思います。自分に都合の悪い方、自分が苦労する方、自分が労苦を感じる方を楽しんで選べるように克己の工夫を味わっていきたいと思います。

子ども達が将来、自分らしく自分の天命に目覚め立命できるように、自他一体に人々の目覚めに寄り添い見守れるよう精進していきたいと思います。

 

 

 

  1. コメント

    世間的に自分磨きと言われることもありますが、本来もっと深い意味があることを感じます。磨かれることは痛みを多少なりとも伴うことを感じますし、若さゆえの粗さは以前よりは少し削がれたかもしれませんが、まだまだなのだと感じます。保育の仕事は面白い、そう教えて頂いたのも先生方からです。その面白さを一緒に味わっていけるよう、日々の面白さを振り返り明日へ進んでいきたいと思います。

  2. コメント

    「覚悟」とは、仏教用語で「迷いを脱し、真理を悟ること」だと言われます。問題は、「自分が何に迷っているか?!」ということであり、「迷ったままだから不安が消えず、すべてが中途半端である」ということに気づくことが大事なのでしょう。「覚悟を決める」とは、自分の道を「受け入れること」であり、それは、「代償の法則」によって、自分にとって不都合な何かを「差し出すこと」でもあります。自分がいったい「何を手放せないでいるのか?!」ひとつずつ捨てていきたいと思います。

  3. コメント

    社内に貼ってあった「人を信じよ。しかし、その百倍も自らを信じよ。」と言う言葉。以前は自分の力を信じることのように感じていましたが、最近では見守られていること、繋がりを信じられていることが自分を信じることのように思えています。自信を失いそうな時ほど、自分よがりになっていないか、お蔭様を感じられているか、など自我慾に囚われている自分の姿勢を確認したいと思います。

  4. コメント

    北陸の出張では、3か月に渡りやり取りをさせて頂いたお客様と一緒になって子ども達、職員の皆さんの事を話し合えたことは自分の中で「ソフト」と言う商品を超えて足を踏み入れた感覚を得るとともに、「ミマモリング」という商品の軸に足を踏み入れた感覚を得ました。ソフトが何年も使えていないことは「ミマモリング」不足ですが、ソフトの問題ではなく、「ソフトのサポート」という自分の価値観を捨てられていないことが問題だと実感しました。ある意味で使えていないことが気にならなくなるのは、見守ると決めたところからかもしれません。自分が何に軸足を置いているのか、日々振り返っていきたいと思います。

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