昨今、グローバル人材という言葉が飛び交っています。文科省をはじめ、世界で通用する人物を育成するということでアクティブラーニングなどという言葉も流行っています。私は当たり前のことを何をいまさらと思っていますが、結局は多様性を受け容れる感性を持っているかどうかであると思っています。
そもそも生物多様性という言葉があるように、生物=多様なのです。それをわざわざ画一であると教え込んできたのは教育がそうしてきたとも言えます。「こういうものだ、こうあるべきだ」と刷り込んでは正解を与えて正解を探すことを繰り返しされてきた人は頭でっかちになって感性を磨きませんでした。感性を優先する人たちは当然答えはないことを知っていて質問をして訊くこと、つまりは無から創造することを優先して直感的に理解していきます。しかし知識や正解を優先する人たちは答え探しに終始費やし正解を求めては無理に正解に合わせて整合性をとっていきます。
本来この世の中は多様であるのは、自然界のように無限に組み合わせが存在するからです。その時々に応じて如何に持ち味を活かして組み合わせを存在させるか、言い換えれば人との出会い、つながりの多様さが新たな未来を産み出すように多様性があるからこの世の中は調和しさらに広がっていくのです。
多様性を失い画一化してしまうことの背景には、知識で分別し「こうでなければならない」という思い込みが強くその知識で分別した立場や役割通りで「なければならない」という先入観や刷り込みを取り払うことができないからです。枠内であることにこだわり枠内であるようにと枠を設けるのです。
例えば、上司はこうでなければならない、夫はこうでなければならない、先生はこうでなければならない、親子はこうでなければならない、男はこうでなければならない、会社はこうでなければならない、あらゆる「なければらない」に縛られます。実際は頭で考えた「なければならない」通りにいくように周りもその人も必死になります。これを自然にまで拡げて、犬でなければならない、魚でなければならない、花でなければならない、稲でなければならないと思い込み、こちらの思い込みで接しているから自由度がなくなく創造性も発揮されず画一化されていくのでしょう。一つの価値観に無理やり合わせて従わせていくというやり方は自然界の本来の姿からほど遠いのです。
自然を観察するのには知識で行うのではなく、感性で行います。なるほどこうなっているのかというのはほとんど直観を用いて全体を掴みます。生きていくと言うのは、自然界で生き残るための感性です。「生き残る感性」がある人はグローバル人材とも言えます。その生き残る力は自然によって磨かれ研ぎ澄まされていきます。学力というものの本質もまた人間が勝手に定義した学力ではなく、自然界の生き物たちが本来本能でもっている学力にすれば多様性のこともまた理解できると思います。
その上で私が思う教育の在り方は、もっと自然に沿って自然から学び直す感性を磨くことです。知識ばかりを使って感性を使わない生き方をやめ、感性を使ってその上で智慧を知識で整理していけばその人物は多様性を受け容れることができるグローバル人材になっていくでしょう。
昨年の海外視察から観えてくるのは、感性を研ぎ澄ます大切さの再認識です。子ども達のためにも、自らが証明するためにあらゆる実験と実践を積み重ねていきたいと思います。
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海外で働くことを憧れた時期もありましたが、今はあまりそれを考えません。場所を問わずとも、今やるべきことをやる、その積み重ねがいつの日かの自分の姿なのだと感じます。ある人が木漏れ日を見て、光が踊っているみたいと表現していました。そんな風に表現できることに憧れてしまいます。心で感じたことを伝えられる自分となれるよう、本からでなく自然に沿って学びを深めていきたいと思います。
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「正解」に合わせて生きるというのは、ワンサイズの制服しかなく、それに自分の身体の方を合わそうとするようなものです。そんなことに一所懸命になっていると、「持ち味」などなくなってしまうでしょう。ただ、「多様性が理解できること」と「多様性が受け入れられること」とは、まだ少し差がありそうです。「違うこと」を心から楽しめ、「違うこと」に本当に安心できるかどうか?!自分の前提を確認しておきたいと思います。
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「こうありたい」と「こうでなければならない」は別物だと思っていましたが、実は「なければならない」が変化した「ありたい」が自分の中には多々あるのかもしれません。本当の「ありたい」は唯ひとつ、それが深く強いものになるほど他のネバネバは消えていくように感じました。先生方と同じ気持ちで、まずは昨日いただいたものを丸ごと受け取り、自分の初心と向き合っていきたいと思います。
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人を評価する目線や人を能力で見る目線も、自分の価値観で相手を測る「ねばならない」になっていることに気づきます。子どもに対しても気が付けば「本人の発達を邪魔しない」のではなく、「発達させなくてはならない」に切り替わってしまい、責任感や義務感でどんどんと不自然さに極みがかかってしまいます。大前提を如何に取り払えるか。自然に身を置き、自然に任せて自分を変えられるかは、同じく子どもに身を置き、子どもに任せて自分を変えられるかと言う事なのだと思います。相手が満足することと、自分が満足することを巧妙に切り替えてしまわぬように、自分自身の軸足を見ていきたいと思います。