ここ数日、寒暖差が激しい日々が続いています。野生動物たちはとても厳しい自然の中で、この寒暖差に身を晒します。我が家のの犬や猫、鳥たちも春の陽気から一転急激に寒くなるとピクリとも動かずに丸まってじっとしています。私たち人間は、暖房などで室内を暖め洋服を着脱して体温調整をして寒暖差をコントロールしますが野生の生き物たちはコントロールできませんから自分が順応していくしかありません。
先日、地域で最近みかけた野良猫が鳥小屋の近くで亡くなっていました。よく見ると、どこかの猫と喧嘩したのか顔や首筋に傷があり怪我をしているようでした。数日の激しい寒暖差によって体力が弱り遂には凍死したのかもしれません。すぐに大き目な樹の下の土を掘って埋葬して念仏を唱えました。
一般的に室内飼い猫の平均寿命は18年~20年くらいだと言われます。それに対して、野良猫の平均寿命は5年~6年くらいと言います。環境が快適になればなるほどに寿命は延びていきます。今ですら病気をしても怪我をしてもすぐに死にはつながらなくなりましたが、本来の野生に生きる生き物たちは常に死と隣り合わせに生きています。野生がもつ逞しさというものは、本来の自然の中で必死に生きる中で培ってくるように思います。
私たちは寿命は長くなりましたが、その分、かつて持っているであろう逞しさを失ったのかもしれません。もしも自然界の永いスパンで物事を観れば、ひょっとすると寿命が短くても自然治癒力を持ち、自然の中で逞しく生きることの方が種を永く発展・維持させていくことができるのかもしれません。かつて様々な自然災害を乗り越えてきた生き物たちは今よりももっと激しい寒暖差の中で生き残ってきました。もしも天災が発生し、私たちの文明でも対処できないほどのことが発生したとき私たちは自力と智慧で乗り越える必要がでてきます。そうなると、今まで必要だった能力が一切機能せず、まったく別の能力が必要になるのです。
それを自然の持つ逞しさといってもいいのかもしれません。いつまでも生きるチカラを失わない、その逞しい心は自然を畏敬し、自然と暮らしていく中で育まれていくものです。自然と接すると謙虚になるのは、自分の方を変え続けていかなければ自然と共に生きていくことができなくなるからです。
文明が栄えたとしては如何に分度分限を守る生活をしていくか、それは子々孫々へと先祖たちの遺してくださった遺徳を譲り渡すために必要なことです。何でも新しいものがいい、人間の発明したものがいいとなってしまえばその反面に失われるのは先祖や自然が与えてくださった自然治癒の力、つまり逞しさなのかもしれません。
逞しさを遺すには、私たちが自然と共生する道を選んでいくしかありません。地球は滅亡しませんが、人間は脆くも早く滅亡してしまうかもしれません。一人の気づきが万人の気づきになりますから、いち早く気づいて自分自身がその生き方、暮らし方を伝承していきたいと思います。
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昔は、生活そのものが理にかなっていました。夜はすることもなく、朝は日の出とともに起きる。無農薬でその土地で採れた旬のものを食べ、移動の殆どは自分の足を使い、立ったり座ったりを繰り返し、家族団欒を通してお互いの健康管理もしていました。それが、便利になり、昼夜が逆転し、食生活は乱れ、楽をしてわざわざ運動が必要になり、家族団欒もなくなり、誘惑だらけのなかで自己管理が難しくなっています。やはり逞しさは、「生活」そのものの中で鍛えられていく必要があるのではないでしょうか。
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子どもたちがキャップへ行き戻ってくると何だか逞しくなったということをよく聞きます。森に入り、そこで感じたことや持って帰ってくるものは決して目に見えるものだけではないのだと感じます。子どもがすぐに自然の勘を取り戻すように、自然との共生を大事にしていきたいと思います。
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人生を蝋燭に例える場合がありますが、細く長く生きたいのか、太く短く生きたいのか?長く生きる方が得のように感じますが、総量は同じならどちらを選んでも本当は同じなのかもしれません。むしろ燃え方によって違ってくるのだと思うと、不自然な社会の中にいるからこそ、自我に負けず刷り込みに負けず自然と同じようにあるがまま、自分が変われる方を選んでいきたいと思います。
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自然の中で生きて行くと、生き方を定めなくては生き残れなかったりと言う事がありますが、自然の中から離れれば離れるほどに生き方を定めずとも生きていけることがあるのかもしれないと感じます。社会が成熟すると同時に自然との付き合い方も問われてくるのだと感じました。新宿だからこそのミルクランドや様々な実践を大切にしていることの意味を忘れずに味わって行きたいと思います。