世の中にはあらゆる伝染病があります。かつて人類は何度もその伝染病に感染し多くの人たちがいのちを失いました。感染症が他人にうつらない病気に対し、伝染病は人から人へ、動物から人へと感染します。
最近では、エボラ出血熱やSARS、ジカ熱など致死率の高い伝染病がでてきています。そもそも人間に有害なウイルスや微生物は、太古の時代から存在していました。人間には、人間に有用で効果のあるウイルスや微生物もあります。ワクチンやその他、幼い頃に感染する水疱瘡やおたふく風邪などもある意味で有用なのかもしれません。
実際に有害なウイルスは人間に有害なだけで自然界では必要なウイルスとも言えます。例えば、腐敗菌や悪玉菌、その他のウイルスも自然淘汰するのに必要なものとも言えます。この自然淘汰は、人間の都合でみれば悪いことのように感じますが自然が淘汰してくれるのだからもっとも長い将来に向けて効果的だとも言えます。
自然はつねに長いスパンで循環していますから、その中で強く逞しくするために淘汰するのです。この淘汰については、自然は篩にかけるということです。私たちの先祖たちも昔は篩という道具があり、身近な自然を感じていました。自然淘汰は、この篩に似ています。
何を遺しておけばいいか、何を淘汰しておけばいいか、自然はそれを自ら判別するのです。私たちは自然の篩にかけられて子々孫々を繋いできた生き物とも言えます。今の時代のように自然淘汰をコントロールすることで、果たしてどうなってしまうのか、心配でもあります。
半分は自然に寄り添い、半分は文明を発展させていくことが素直に謙虚に生きることかもしれません。人は病気で苦しいからこそ、自然の仕組みが観えてきます。自然の仕組みを深めてみようと思います。
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「この世に不要なものは何ひとつない」と言われます。すべての存在に意味があり、それぞれに役割があるならば、それを人間都合で勝手に排除することは大宇宙の法則に反することになります。自分の寿命を遥かに超えて働く法則を知るには、歴史に学ぶ必要があるでしょう。どこまで「保身」を超えることができるか、個人も人類もその辺りを試され、篩にかけられているのかもしれません。
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自分に置き換えた時に、それは克己に当たるように感じます。ただ、自然界では淘汰されるところが自分自身においては流されていることもあることを感じます。自分で自分を律し、ありたい方へ向かっていきたいと思います。
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ワクチンや抗生物質も、長い目で見るとウィルスを進化させたりと自然をコントロールしようとすると、それ以上の力で自然は包むのだと、学びました。管理することと、寄り添うことの違いを、感じます。それは、保育の中でも同じなのではないかと感じます。自分の声かけ、行動、それが自分のやりたい事や思うことに向けての管理になっていないか、向き合いどころと自覚して歩みたいと思います。
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自然からしてみれば共生しようとしない人間という生き物自体、本来は淘汰する対象なのではないかと感じます。何を淘汰しようとするか、それは自我や我欲のようにも感じると、その働きはある意味では自然からの思いやりなのかもしれません。行き過ぎないように見守って下さっているのだと、自然からメッセージをいただいた時は素直にそれを受け入れられる自分でありたいと思います。