ベランダに実生のクスノキとイチョウが育っています。ちょうど3年目に入りますが、また春に合わせてそれぞれ蕾をつけて準備をしています。クスノキについては、沢山の葉をつけたままに冬の寒さを耐えて乗り越えました。イチョウについては葉を落とし、枝だけになった姿で春の来るのを待っています。
同じ冬を乗り越えるといっても、木々によって乗り越えて方が異なります。常葉広葉樹であるクスノキは、常に光合成を維持するために葉を広げ続けます。光合成ができなくなった葉は落とし、まだできるものは残しています。常に光合成をし続けることで生き続ける太陽の光を一年中浴びて成長し続ける戦略とも言えます。
またイチョウは分類は針葉樹になるのですが落葉します。冬に一斉に葉を落とした後は、枝ぶりのままに今まで蓄えた養分をしっかりと守り春が来るのを待つ戦略です。
どちらの木々も冬を乗り越えるために智慧を働かせるのですが、タイプの異なる木々を一冬観察してみたらそれぞれの持ち味があり、それぞれの乗り越え方が合っていいと安心する気持ちになります。
冬はどんな生き物にも到来するものです。その冬の乗り越え方は、決して一つではなく有る生き物は土中に潜り冬眠し、有る生き物は木の皮に隠れて身を寄せ合ってじっと固まり、またある生き物は人間の住む屋内に入り込み春を待ちます。鳥などは街に降りてきて南天の実や庭のあちこちで越冬したり、渡り鳥になって暖かいところへと移動しているものもあります。
冬は私たちに忍耐を教えてくださいます。これはどの生き物たちも自然に忍耐を学んでいるのを感じるからそう覚えます。この忍耐というものが如何に人生において重要なものか、冬がなければ私たちは忍耐の妙味を味わうこともないのかもしれません。
二宮尊徳に「小にして忍耐せざる者、長じて速やかに亡ぶ。 桃李これなり。小にして忍耐する者、長じて久しく存す。楠樫これなり。人あるいは幼にして学を勉め、長じて身を立て、死して名を存す。またあるいは幼にして遊惰、長じて家を失い、死して名無し。これ忍耐と不忍耐とに由るなり。人よろしく桃李を見てもって戒慎し、楠樫を見てもって発憤すべし。」があります。
桃李や楠樫のようにしっかりと忍耐するもののみ長じてのちの大樹となり杜を形成し生き物たちの父母となる。もしも忍耐を怠り、怠惰に流されれば大成することがないということです。
焦らずじっくりという言葉は、自然界の持つ忍耐力の側面です。
理念や初心から決して目を反らさず今に戒慎し、今を発憤して実践を強めていきたいと思います。
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僭越ながら、ともを想いひと書き失礼申し上げます。
強める実践。これこそが身体を弱めているのではないでしょうか。出会って三年。たったの一日も、ダウンしたことはありません。身体の声を優先していいるからです。今いちど、心技体。まことの実践とはなにか。よくよく想いをめぐらせていただきたく存じます。
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「忍耐」とは、「待つ」ということでもあるでしょう。そして、「待つ」ということは、自分の都合を外し、我を抑える努力でもあります。この「忍耐」には、やがてときが巡り、自分のときが得られるという「希望」があります。不満を募らす「我慢」ではなく、「はやる気持ち」を抑えながら、力を蓄えながら、明日を信じてじっと「待つ」。いかなるときも「春を待つ姿勢」を忘れないようにしたいと思います。
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「それぞれの乗り越え方が合っていい」。そう思うと、誰かと同じようにでも、いつも同じように乗り越えないといけない、そんなことはないのだと感じます。その時々に適した乗り越え方はあっても、だからと言って焦って怠ってはいけない、そのことは肝に銘じ精進していきたいと思います。
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耐え忍ぶ、その最中に何を観ているのかがとても重要なように感じます。理念や初心という芯が持てていれば、春という結果が来ることはもはや問題ではなく、既に心の中には春があり、そのプロセス自体を味わえているように感じます。外側の変化を期待するのではなく内側を常に内観し、安心して歩んでいられる状態を保ち続けたいと思います。
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中途半端に耐えようとすると、かえって厳しさは一層に増しますが、飛び込んでみるとむしろそこには厳しさを超える意志の熱さがあるように思います。今自分が持っている悩みや苦しみは、ほとんどが自分のスタンスや行動をその時の条件によって変えていくところばかりです。だからこそ、忍耐が難しいのだと感じます。自分次第で変わっていく世界をどのように味わうのか。頑なではなく、理念や信念に柔軟にいられるように、条件で左右されない環境と、振り返り改善していく環境を見つけ出していきたいと思います。