真の実践者

よく実践者のことをみて、人はなんであんな大変なことをやるのだろうと思うものです。もしくはあれだけやらなければならないことばかりで大変ではないかと心配されるものです。例えば、トイレ掃除をしている人や毎日有り難うを100回言うなどと決めている人を見てはなんであんな大変なことを続けるのだろうかと感じるものです。

しかし実際は聖人になろうとやっているわけでもなく、立派な人になろうとしているわけでもなく、周りから見れば無理してわざわざしなくてもと思うかもしれませんが本人は実際は気づいたことを忘れないためにすぐに実践をした方が未来に色々な効果が出てきて最終的には運が善くなり不思議とうまくいくことが多いから続けているのです。

体調が悪い時とか、感情の落ち着かない時でも、実践をしていたら自然に心が穏やかになって初心を取り戻していきます。どうしても人は日々に忙しくなり大切な初心を忘れたりしますからそれを忘れないでいることで物事は本質的に積み上がり願望も成就していきますから日々に内省したり振り返るための実践を持っている人はやっぱり「好いこと尽し」になっていきます。別に「やらなければならない」と、ネバネバしているのではなくそっちの方が楽しいし上手くいく体験を沢山しているからその人は自然に続いているとも言えます。

実際に人が善いと思ったことをいくら知っても、知っているだけでは何も変わりません。そこに知ったことを忘れないための実践があって善いことは伸ばしていけます。

たとえば御蔭様を忘れない方が良いと知ったら、すぐに御蔭様ノートを書いていくことを決める。普通は3日もすれば御蔭様であったことも忘れるのが人間ですが、日々に御蔭様ノートを書いていたら忘れないのです。こういうように忘れないために続けていたら、日々に御蔭様の存在を実感することができ自分の力ではなくいつも御蔭様の力によって物事は進めてくださっているのだと感謝する心が次第に持てるようになっていきます。すると、人間関係も御蔭様、仕事の成果も御蔭様、健康も安全もすべて御蔭様だとなって日頃感じれない他人様の偉大な憐れみや施し、思いやり利他の人の行っている姿が観えてきてより感謝が伝わり合い自分の真似したくなり自他が仕合わせになっていくのです。

これは別に何が何でもしなければならないと思って本人はやっているわけではなく、そっちの方が楽しいからやっているだけでそっちの方が得だし効果が出てくれば無理するよりも楽だから続けるのです。実際に実践をしてみれば、実践をした方が楽だなと思う事ばかりです。言い換えれば自分にメリットがあるからやっているだけです。

先ほどの御蔭様ノートもそうだし、このかんながらブログ、他にも昨年からはじめた暮らしの実践で炭を熾してお茶を飲むのもそうですが、日々にやればやるほどに気づいたことがカタチになってきて結果も経過も以前よりずっと善くなってきています。一つやって効果が出てくれば他にもいっぱいやりたくなります。そうしているうちに周りの人たちから実践者とか呼ばれますが、実際は効果が出てくると愉しいから続けているだけなのです。そして効果が出たら人に教えてあげたくなりますから一緒にやらないかと誘うのです。例えば社内で皆で一緒に行っている「ツイてる体操」や「面白い話」、その他様々な実践もやればやるほどに楽しくなって皆の人生の運気も上がって結果も出て来ます。決してしなければならないと悲壮感からやっているのではなく、そっちの方が楽だし楽しい、効果覿面だからやっているだけなのです。

実践をするのは何でも最初は大変そうに見えますが、実践を継続していくと次第に思った以上の効果や奇跡に出会ってその凄さやその実践がつくってくれた様々な神業に驚き感動することばかりです。継続は力なりという諺もありますが、継続してみないと分からないのが実践の醍醐味ですから続けてはじめて変化の楽しさを味わえます。トイレ掃除だって一日やったくらいではわかりませんが、何年もやっている人には掃除で何が変わるのかの実感を沢山持っているのです。

実践の面白さはその実践そのものの大変さを見るのではなく「実践しているとどんな効果がありますか?」と本人にストレートに聴いた方がその実践の価値と面白さを正しく知ることが出来るように思います。

早起きは三文の徳とか、毎日笑顔でニコニコしているとか、自他に前向きな言葉がけをし続けるとか、みんなが喜ぶことをたくさんするとか、ありがとうを沢山言うとか、毎朝神社を参拝してお祈りをするとか、そういうものも実践と呼びます。そうやって実践をやっていた方がなんでも不思議とうまくいくことを知っている人のことを実践者、または実践ジャーと呼びます。早起きだって今の時代は暗いうちから起きてそんなに早起きでストイックだと自分には無理だとか煙たがられますが、実際に早朝から起きてやっている方が日中や夜中にやるよりもずっと楽だし効果が出て楽しいから早起きしているだけで早起きが「好いこと尽し」だからやっているだけなのです。

私は実践者はみんな謙虚な人だと思っています。なぜなら自分の力で物事が動かないことを知っている真の謙虚な人はみんな自分自身の実践を欠かさないからです。それは自分が傲慢になり我儘になり感謝を忘れ御蔭さまを信じなくなることで人生がつまらなくなることに気づいているからです。謙虚な人ほど実践を続けて、黙々と粛々と続けるのは自分の力ではないと思うことの方が自然体だと思っているからです。

実践は人に強要するのではなく自分が実践していたらこんないいことがあったよ、こんな奇跡があったんだよとこの実践の面白さ、実践の功徳、周り廻ってくる自然の恩恵を伝えていきたいと思います。やってみてもしも継続ができてその価値や面白さを知ったなら同じように悩んでいる人のために何か御役に立つかもしれません。他人を変えることはできませんから、自分の実践の姿、その実践の背中を見てもらって人は変わることがあるのかもしれません。

実践の価値を伝道できるように、自らの実践を味わい、実践を愉しみ、周りの実践者と一緒に楽しく道を弘げていけるように精進していきたいと思います。

  1. コメント

    刷り込みカレンダーの一つにやりきる人というのがあります。楽しんで形になって喜んでもらうとまた次の励みになります。今の自分が気づいたことは1年前、2年前はきっと気付かなかったことです。ただ、続ける中で新たに知る楽しみは何者にも変えがたいものであることもまた感じています。ひとつ進むごとにまた新たな課題や目指す方向が見えてきます。その一歩一歩を味わっていきたいと思います。

  2. コメント

    「実践」が「修行」のように見えていて敬遠していたときがありました。また、「それをすることにどんな意味があるのか?ということを知り、それに納得すればやる」というスタンスでしたが、今は「やってみればわかる」という意味がよくわかります。「やる前にわかること」と「やってみてわかること」はぜんぜん違い、そこに「修行の本質」のようなものがあるのではないかと思います。やはり「やってみないとわからない」のです。

  3. コメント

    昨日の朝は参加人数の関係で一円対話を行えませんでしたが、その代わりに植物の世話や社内の清掃などをいつもより丁寧に行ってみると、日頃と同じように心は整い清々しい気持ちで朝のスタートを切ることが出来ました。実践も形を見るのではなく目的の方を観る必要があることを感じます。自分が何を決めてその実践を始めたのか?心の乱れや忙しさで「やらねば」や「やらされて」の気持ちに摩り替わりそうな時ほど、自分が決めたのは「やること」ではなく「目的」の方であることを思い出したいと思います。

  4. コメント

    選ばないと決める。その生き方を定めることで、本当に運が良くなり、愉しめるようにもなり、以前と比べると心が穏やかになってきました。まだまだ心の起伏はありますが、それでも頂いた実践の機会が増えるにつれ、自分自身を整えてくれる感覚があります。また、自分自身が今、意識しつつ取り組んでいる事ですが、自分でやれることを探して決めることよりも、誰かに相談したり聴いたり、誰か困っていることを探したりしていく事が自分の為の実践にならないコツなのかもしれません。やってみないと分からないからこそ、やりながら学んでいきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です