人は最も分かっていないのが自分のことだとも言います。他人から指摘されてはじめて人は自分のことが分かります。自分でいくら分かった気になっていても知らず知らずのうちに自分のことを思い込み勘違いするものです。そしてその自分の価値というものを歪ませていくものです。人間にはそれぞれに価値観というものがありますから、価値観を自覚していないまま自分を知ったと思っていてもその価値観自体を見つめることなしに自分を分かるということはないのです。
しかしこの価値観を見つめるには、価値観を超えたものの見方ができるようにならなければ価値観に縛られてしまいます。私が伝えている聴福人の実践、「人の話を素直に聴ける能力」も、そのために必要な自己修養の要なのです。この素直さというものは能力ですから、使う人と使わない人がいるだけです。このもって生まれた素直さという能力を活かす人はその素直の能力を使って話を聴くことができます。そこで自分の価値観を超えた見方を知るのです。素直の能力があるのに使わないというのはもったいないことですから常に自分を見つめるためにも素直の能力を使いその力を伸ばしていくといいと思います。
しかしその素直になれないのも自分の価値観に固執するからです。その固執した分、周りとの軋轢は発生します。自分の存在価値をどのように捉えているか、そこに価値観の固執から抜け出すヒントがあると私は思っています。アメリカの実業家で著述家にジェリー・ミンチントンがいます。その人の言葉の中に存在価値のことが分かりやすく解説しています。
「生まれつき価値のある存在なのだから自分の価値を他人に証明する必要はない。」
人はそもそも生まれつき存在価値があるものです。何かができるとかできないとか、成功とか失敗とかでその人の存在価値が変わるということはありません。いちいちそれで存在価値を変えていたら面倒なことになります。人の存在価値とは生まれつきのものです。しかし周りを見渡せば、存在価値ばかりを気にして自分ができなければ存在価値がないと思っている人も沢山います。自分が存在価値がないと思っている人は、同じような人のことも存在価値がないと見なすものです。これも一つの「価値」観念ですがそこに気づくことが最初の入口かもしれません。
他にもジェリー・ミンチントンは、自分の価値観を正しく知りその価値観を超えた見方をするための言葉を記しています。ここでは価値観のことを「思い込み」と認識するといいと思います。
「何かが真理であると思い込むと、それが実際に真理であるかどうかは関係ない。私たちはいったん思い込みにとらわれると、まるでそれが真理であるかのようにふるまうようになる。」
「私たちは知性、善悪の判断、倫理、道徳、正義、善良さ、礼儀作法などの面において、自分が他人よりも優れていると思い込んでいる。自分のやり方が正しく、他人のやり方は間違っているというわけである。もしそう思い込んでいないなら、自分が他人を評価できる立場にあるという無神経で独善的な思い込みはしないはずだ。」
思い込みというのは、自分を正当化していくものです。しかしもしも謙虚であれば、ひょっとしたら間違っているのは自分ではないかと素直の能力を活かして振り返れるものです。そしてその姿勢になってはじめて人の話が聴ける自分、価値観を超えたところで物事の実相に気づく境地に入るとも言えます。思い込みが外れないのは、価値観に固執し感情に呑まれるからです。その理由は自分の正当化に他なりません、自分を正当化するからこそ周りを変えようとするのです。
「私たちが他人に向かって、『あなたのせいですごく腹が立つ』と言うとき、実質的には『あなたのせいで私はすごく気分が悪いのだから、あなたは変わる必要がある』と言っているのだ。しかし、たとえ他人が私たちの感情的な問題の責任を受け入れてくれても、満足のいく解決策にはならない。症状を取り除いても原因がそのままである限り、同じような問題がまた発生するからだ。」
「自分の気分が悪いことを他人のせいにすることは便利だが、他人にそんなに大きな力を与えてしまうと、自分の立場が弱くなるだけである。そうなると、私たちは他人が親切にしてくれるを期待しながら、生きていかなければならなくなるが、そんなことは実際に期待できるはずがない。」
「注目すべきことは、私たちが他人を変えようとして、様々なテクニックを駆使することではなく他人の不快な行動を変えさせるために私たち自身がかなり不快な行動をとっているという事実である。」
そしてこうも言います。
「現実を直視しよう。変えることの出来ない現実は、受け入れる以外に方法はない。」と。
今、起きてることの現実を受け容れないところに問題があるのでありそもそも問題は自分の価値観から発生してくるものです。なぜならある人にとっては造作もないことでも、ある人にとってはトラウマと向き合うほどのこともあるからです。現実の直視もまた素直の能力が必要です。しかし問題は決して悪いことではなく、問題があるから物事の本質に気づき直すこともできます。結果ばかりを心配してプロセスを味あわなければ気づくことができません。
人は気づくことで初心を思い出しますし、気づくことで改めて自分の何を変化させていけばいいかを発見しますから価値を自分で勝手に決めてはならないのです。
そしてジェリー・ミンチントンはこう勇気づけます。
「かなりひどい過ちも含めて、過ちを犯すことはきわめて正常である。私が犯した過ちは、私の知性や人間としての価値とは関係ない。」
「私たちはどんなに愚かな過ちを犯しても、それをすすんで認めるべきである。私たちは死ぬまでつねに過ちを犯しつづける存在なのだ。過ちを犯しつづけるかぎり、自分がまだ生きて学んでいることの証である。」
失敗や成功がその人の値打ちを決めるものではありませんし、その人ができる人かできない人かがその人の存在価値を決めるものでもありません。その人の存在価値は、何もしなくても何もできなくてもそのものが価値なのです。それが存在するということであり、その存在そのものが価値であることに気づくことが本当に自分を知ることなのです。
今の時代は、かつての教育を刷り込まれその課題で苦しんでいる人たちがたくさんいます。しかしこれも気づくための善い最良の機会と捉え、一緒に歩んでくれる人たちや信頼する人たちともに新たな価値に気づき素直の能力を磨いていく砥石にしていけばいいと思います。
分からないことがあっていい、知らないこともあっていい、そしてできないことがあっていい、あってもなくても両方善いのが一円観です。引き続き、聴福人の実践を味わい盡していきたいと思います。
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振り返り、気づいて次はこうしようと思っても中々上手くいきません。自分は素直なのかどうなのか、冒頭にあるように自分のことはよくわかりません。ただ、花を見て綺麗だな、素敵な言葉に出会い自分もそんな風に表現してみたいな、そう思う感情や受け止め方を大事にしていきたいと思っています。それが聴福に現れると感じるからです。
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「自分の価値を自分で決めることは傲慢である」と言われますが、そうであるなら「他人の価値を自分の価値観で決めつけること」も傲慢です。また、「存在が価値」であるなら、「価値」に「条件」はいりませんし、その「価値」は上がったり下がったりしません。「価値があるか、ないか」を判定するのではなく「価値ある存在である」というところから自他すべてを見直してみたいと思います。
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讃給の実践も積み重ねることで「何をしてもらったか」よりも「存在そのものに対する感謝の気持ち」という視点で仲間の姿を観ることが増えてきたように感じます。また、仲間のブログにあった「知が入ると人は荒ぶれて攻撃的になる」という言葉からは、知を得た場合だけでなく、知を欲することや知が無いと嘆くこともまた攻撃性を生むのだと感じました。惻隠とは相手への心のようで、実は自分に対するものだとも思えます。自他のあるがままを受け入れていきたいと思います。
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今回の登山で改めて学んだのは、今までに読んだ本の知識や登山家の方のブログなどから頂いた気づきは、結局のところ、現場に行き、自分で実践してみて分かったり、分からなかったりという成果を頂けたことでした。同時に、自分が初心と位置付けた価値観も、登ってみるとその初心からのずれも含めて学びを頂きました。しかし、ここで思うのは、「何もしなくてもそれがその人の価値」と言うところです。頭では理解できますが、実践から掴んでいるものがどれなのかが、見つけられていません。今、思い浮かばないだけなのかは分かりませんが、向き合い見つめていきたいと思います。