今の時代は「努力」というと、何か無理をして一生懸命に頑張ることであると認識している人が多くいます。特に努力は実るという言葉あるように、必死に努力をすれば必ず結果が出るようなことを語られます。そのためか、努力しても努力しても結果が出ない時はどうせ無理と諦める人も増えたように思います。現在、使われている努力の意味は学校で教えられたものですが本来の努力とは何か少し深めてみたいと思います。
そもそも努力というものは、何処から来るものか、それはその人が何かやりたいことがあって自然に湧き出てくるものです。例えば、吉田松陰に「やむにやまれぬ大和魂」という言葉があります。分かっていてもとめられないほどにやりたいという気持ち、つまりはそこまでしてでも成し遂げてみたいと根底から湧き出てくる素直な心のことです。
素直な心を持つ人だけが、本来の努力をし、素直な心が出なければそれは努力とは呼ばないと私は思います。
幸田露伴にこういう言葉があります。
『気づいたら自分の行いが自然と努力になっている。それこそが努力の真髄であり、醍醐味である』
つまり、努力は無理にするものではなく気が付いたとき自然に努力になっているというものです。本来の努力は自然発生的に素直な心から発生するからこそ、その人の主体的なやりたいことを尊重することでその努力が本来の努力となり結実するのです。そしてその結実の意味は結果が出るということではありません。醍醐味という言い方をしていますが、深い味わいがあるということです。そして努力の解釈としてこう続きます。
『努力には、1.直接の努力、2.間接の努力、2種類ある。目の前の課題、今やるべきことを精一杯頑張るのが直接の努力であり、物事の準備や頑張るための基礎的な力が間接の努力。人間、時に努力の結果を云々しがちだけど、努力は自発的に頑張ることであり、自然な行為。結果は気にせず、努力すべし。もし、努力が思う通りの結果にならないのであればそれは努力の方向を間違えている。もしくは、間接の努力が足りないから。準備し、やる気を高め、意志を持ち、努力を継続する。』
自発的にやっているからこそ結果が気にならない、それが自然の行為なのです。自然にやっている人は、別に誰かのためにやるのでもなく自分のためにやるのではなくただ好きだからやっているのです。私も何でも好きになる性格らしく、すぐにのめり込んで深めていきます。特に集中すると労苦よりも、努力していることが味わい深くやめるにやめられなくなっていくのです。そして幸田露伴はこうも言います。
『「好んで為す」といっても、そのあいだに好まざる事態が生ずるのは人生にありがちな事実である。その好まざる場合が生じたときに、自分の感情に打ち克ってその目的の遂行をするのが、すなわち《努力》なのである。』
勿論、努力は好きで楽しくても時折とても苦しいときがあります。そんな時は、自分の感情に呑まれるときで価値観を壊す必要が出てくるときです。そういう時には、感情に呑まれていようがいまいがそれにすぐに気付くために実践を続け、実践を通して感情に打ち克ってその上で平常心を取り戻す、それがすなわち「努力の本質」であると私は思っています。
努力とは素直から出てくるものだから、如何に平常心を維持するかということが何よりも優先されるのです。平常心は、感情を揺さぶりますから大事なのは感情よりも理念や初心が優先されるだけの胆力を磨くということでしょう。
本来の努力、自然のままあるがままに楽しみながら日々を精進していきたいと思います。
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これまで「慎独」の意味を誤解していました。何故、独り慎むのか。それは決して自分のためではなく、自分のために、自分だけができればいいのでもなく、本来目指すべきためにあるのだと実感しています。これからも大事にしていきたい信条であるからこそ、努力の醍醐味を味わえるよう実践を積んでいきたいと思います。
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「自分は努力している」あるいは「こんなにガンバっているのに」と言いたいときは、たいていうまくいっていません。逆に、周りから「あの人は努力の人だ」と言われる人ほど、本人には努力している意識がないようです。本多静六さんは、「努力即幸福」とおっしゃいました。「幸福になるために努力する」のではなく、「努力自体が幸福なのだ」ということです。そういう素直な努力を目指したいと思います。
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松陰先生の「夫れ志の在る所、気も亦従ふ」という言葉に出逢った時、まさにこれなのだと衝撃を受けたことを思い出します。「好きなことを仕事にする」という言葉をよく耳にしますが、ここで言うところの「好き」とは所謂「好み」とは違い、もっと奥深い意味があることを感じます。自己と向き合い、自分の中にある「好」を研ぎ澄ませ続けていきたいと思います。
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義務を超えた習慣と超えない習慣があります。また、なんの為にやっているのかも、ブレたりブレなかったりありますが、それでも習慣は積み上がり、磨かれていくものだと感じます。実践者の課題や個性を色濃く映し出す鏡はまた、周りの方々がその実践を有難く思ってくれたり、大切に思って下さる方によっても磨かれている事を感じます。自他の実践に、義務の眼差しがないか、感謝の眼差しでいるかを見つめたいと思います。