先日、高校で一円対話の聴福人をある先生に実践していただきました。その先生はとても明るくポジティブ、そして何より「ゆるい」性格の方で愉しそうに一円対話を子ども達と実践していました。一円対話は場創りが重要であり、その「ゆるさ」がとても場を和ませていたことが印象的でした。
ここ数年、ゆるキャラブームもあり「ゆるい」ということが使われるようになってきました。改めて「ゆるい」ということを深めてみようと思います。
そもそもゆるいという字を辞書で調べてみると、 張りぐあいや締めぐあいが弱い。また、すきまなどがあり、ぴったりとしない。 曲がり方や傾斜などが急激でない。 激しくない。勢いが弱い。また、ゆっくりしている。 規則などが厳しくない。寛大である。 水分が多くやわらかい。 気持ちがたるんでいる。などが書かれています。
実際にゆるキャラをみると、なんとなく抜けていて柔かい感じがします。つまりキャラクターがゆるい、そののんびりした存在にかわいくて癒されるとか感じて人気があります。どこかゆるキャラは不完全なところがあります、別に完璧でなくてもいいというその方がゆるくて楽しいという存在そのものの価値を感じられるものです。こうでなければならないやこうあらねばならないという固執したものがなく、融通無碍にありのままの不完全で和んでいるのが「ゆるさ」の特徴です。
広辞苑にはこの「ゆるい」の用例として吉田兼好の「徒然草」にある、『緩くして柔らかなる時は、一毛も損せず』と書かれてあります。これは「心がゆるやかで柔軟な考えができる時は人間関係がどうあったとしても他人の考えに影響を受けることなく髪の毛一本さえ傷つけられない」とあります。つまり心が寛大で寛容な人は、どんなものも受け容れるゆるさがあるがゆえに物事を受け容れる心の広さがあるということでしょう。心が広い人は、どんな出来事もポジティブに受け容れそれをまた取り容れる余地が沢山あるので自分の考えに固執しなくても自分の考えをちゃんと貫くことができているということです。
この徒然草の前にはこうあります。
「身をも人をも頼まざれば、是なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右(さう)広ければ障(さわ)らず。前後遠ければふさがらず。狭き時は、ひしげ砕く。心を用ゐること少しきにして厳しき時は、ものに逆ひ、争ひて、破る。ゆるくして柔らかなる時は、一毛も損せず。人は天地の霊なり。天地は限るところなし。人の性、何ぞ異ならん。寛大にして窮まらざる時は、喜怒これに障らずして、もののために煩はず。」
意訳ですが、「誰にも依存しなければ、順調な時に喜び、逆境にある時に恨むこともしなくてすむ。左右が広ければどんな物に妨げられず、前後が広ければどこまでも行き詰まりがない。周りが狭い時は体が押しつぶされる、心を用いる時に余裕と柔軟さがない時は人と衝突し争って身を損なうことになる。ゆったりとして大らかに生きる時は毛一本ほども損なうことがない。 人は天地の間に存在するいのちの一つである。その天地の間には限界というものがなく無限そのものである。それは人の本性もそれと同じはずで心が寛大で限りなく広い時は、喜怒の情も心を損なうことがなく何かに煩わされることもないのである。」ということです。
つまりゆるさの本質は、「寛容・寛大でありゆるいということは自然に変化を愉しんでいる前向きな姿勢」ということです。人は固執することで執着が根深くなり、そのことで自我ばかりが強くなり周りを受け容れることをやめて強情になってしまうものです。しかし変化を愉しみ味わう人は、「あれもあり、これもあり、どれもあり」と何でも認める寛容さがあります。それは多様性を活かす考え方でもあり、それぞれの持ち味を発見し活かすコツでもあります。そしてこれは聴福人の大切な素養の一つです。
正しいことばかりが増えてくると息苦しくなってきます。そんなときこの「ゆるさ」といった寛大な心があれば正しいことよりも楽しい、そして面白い嬉しいと感じられるように思います。自然界はみんなこの嬉しき、楽しき、面白きに生きているいのちばかりです。
カグヤの理念は子ども第一義、このスローでゆるくポジティブな自然一体の子ども達の子ども心を見習って人間の世界であまり依存しすぎないように、常に自然の中で心を軽くしてウキウキワクワク緩やかに生きていきたいと思います。
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以前教えて頂いた「ねむりのもりのはなし」を下から読んでも意味が通ることに気づきました。この詩がゆるいというより、大事なことを思い出させてくれ、緩和材のように受け止めてもらえるような感覚があります。締めれば締めるほどどんどん苦しくなりますが、そんな時こそ顔を見ただけで安心できるそんな存在でありたいと思います。今思えば、余裕の「裕」の字の誤りもその表れとも感じます。ホッとし心を取り戻せる、人間味溢れる余裕を大事にしたいと感じています。
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人が「自分の都合」を持ち出すのは、それを持ち出さないと自分が保てないからでしょう。それは、言い換えれば、「自分の都合を譲る余裕がない」ということでもあります。人は、自分のことで精一杯のとき、自分の悩みでいっぱいいっぱいのときに、人を思いやることはできません。常に「自分のことは後回しでいい」ように自己を管理しておくことが、自分の「器」を広げ「寛容」であるために必要な努力なのではないでしょうか。
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「緩さ」を勝手に五段活用してみると、「ゆるさ」「ゆるし」「ゆるす」「ゆるせ」「ゆるそ(う)」となり、いつの間にか言葉自体が「緩」から「許」に変わることに気づきます。もともと「許し」の語源は「緩ます」にあるようで、意味を思うと、なるほどなと感じます。「ねばならない」に縛られない、いつでも自他を許せる「ゆるさ」をもっていたいと思います。
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どうでもいいから適当なのではなく、ただ固執しない心。
八方美人なのでもなく、ただいつも笑顔に。
太陽のようにずっと変わらずに自分を遣える人間になっていきたい。そう感じます。優先順位が見えていれば、心に余裕が生まれますが、生まれるまでゆるさが生まれないのではなく、ゆるく生きるから心に余裕が生まれ、優先順位が見えてくるのかもしれません。志と共に歩む道、大切に味わっていきたいと思います。