今の時代は友達というものの言葉の意味が変わってきているように思います。自分を中心に人を分けては差別し分別し争いは尽きません。本来、人類をはじめすべての生き物たちはこの世の中で共に助け合い支え合った友人たちとも言えます。悠久の年月、自然災害や様々な困難、また平和で豊かなときも苦楽をずっと一緒に乗り越えてきた友達とも言えます。
友というのはプロセスを一緒にいきる、二つではなく一つの存在のことであり、分かれているものを自分勝手に分別したのを友とは呼ばないように思うのです。言い換えれば周囲にあるすべてのもの、地球に存在する生物非生物いたるまで、いのちはすべて友とも言えます。
アメリカインディアンたちは、自然と共に暮らしてきました。自然と共に生きる者たちはすべての声を聴き、すべてのものと「ともに」往きます。つまりこの「とも」の言葉の響きが「朋・伴・共・友」と同義でありすべてのいのちと歩むのです。彼らの言葉の中にそれが観得ます。
「地の果てまで行っても、海の向こうまで行っても、空の果てまで行っても、山の向こうまで行っても、友達でないひとに出逢ったことはない」
「植物は人の兄弟姉妹、耳を傾ければ語りかける声を聴くことができる」
「どんな動物もあなたよりずっと多くを知っている」
こちらが耳を傾けていけば、友はこの世に満ちています。しかし今は、自分の人生に縛られ時間に縛られ、大切なことを感じることができなくなっているように思います。星の王子様にこういう言葉があります。
「人間たちはもう時間がなくなりすぎて、ほんとうには、なにも知ることができないでいる。なにもかもできあがった品を、店で買う。でも友だちを売ってる店なんてないから、人間たちにはもう友だちがいない」
なんでも結果だけを重視し、評価ばかりを気にして生きていたら大切なものに気づけなくなります。この世でもっとも大切なものは一緒に寄り添い生きる友であり、その暮らしの中で助け合う仲間です。時間というものの概念が、様々なものを見えなくしていったように思います。悠久の自然の中にある自他の存在に気づくことが、友を見出す入口になるのかもしれません。
アメリカンインディアンたちは自然と「とも」に生きて私たちに伝えます。「日と夜、季節、星、月、太陽、その移ろいを見れば、人より偉大な何かの存在を思わずにはいられない」と。ともに生きる人たちには、そのともに生きる存在を感じ、友に常に心を開いていくことを大切にする生き方をしています。そこでは現代社會にあるような様々な孤立や偏見、差別は存在しません。それが自然界だからです。
最後に谷川俊太郎の「ともだち」と題する言葉から抜粋します。
「にんげんじゃなくても ときには ともだち。
どうしたら このこの てだすけが できるだろう。
あったことが なくても このこは ともだち。
このこのために なにをしてあげたら いいだろう。
あったことが なくても このこは ともだち。
おかねもちのこ まずしいこ、
どうしたら ふたりは ともだちに なれるだろうか。
だれだって ひとりぼっちでは いきてはゆけない。
ともだちって すばらしい」
人間は立場を分けたことで、本当の人間関係が築けなくなっている人が沢山います。きっとみんなそれでとても苦しんでいますから、同じように苦しんでものをみてほっとけない、なんとか助けてあげたい、時には共に寄り添い見守りたい、そう思うのが人間本来の素直な心情ではないかと思います。真心はいつも自然に湧き出てくる自然体の中に在ります。自他に正直に生きていけるよう、子ども心を大切にともを守っていきたいと思います。
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その人の「分類の仕方」を見ると、その人の「認識の仕方」がわかります。ひとつに見えるか、バラバラに見えるか、敵味方に見えるか、その「見え方」でまったく違う人生を生きることになります。また、「仲間意識」や「友達意識」は、各自の人生観そのものでもあるでしょう。同じ時代に生きる同胞、同じ地域に生きる朋友、同じ地球に生きる仲間を「放っておけない、知らん顔はできない」という純粋な思いに素直でありたいと思います。
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妻の実家に帰ると、道端にも家の横にも沢山の花が育てられていました。毎年みている光景ではありましたが、今年はそこにいつも心を配っている義母の気持ちが少し観えたような気がします。「自然と共に生きている」と言葉にすれば簡単ですが「自然」と分けていること自体が、心の違いでもあるのかもしれません。自分の名前の中にも「とも」はあります。その意味を広く大きく捉えていきたいと思います。
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赤目自然農塾で自然に沿う生き方ということを聞いた時、これまで考えもしたことのないことばかりでした。ともに生きるということも、目の前の一つひとつに目をやると話しかけてくれてるようにさえ感じます。耳を澄まし、耳を傾けられる自然に沿った生き方を目指していきたいと思います。
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父親には早くから、お前は子であり友達だと言われた事を思い出しました。親子や年齢に限らず、見てくれていた事を思うと、大切な体験を頂いたと感じます。今は生と死を分けずとも父親と共にいられる事から、寂しさよりも有り難さを感じます。しかし、自分を振り返ればその眼差しを身につけているわけではありません。分けている自分自身に気付いていきたいと思います。