先日、5年目になる自然農の田んぼに無事に田植えをすることができました。東日本大震災からこの田んぼとの御縁ができ今では畑をはじめいよいよ人の手が入ってきた感じがでてきて味わい深い豊かな環境ができてきています。
この自然農の田んぼは機械を用いず、手作業で手間暇かけ手入れしてきました。そのためか畦も他の田んぼのように真っ直ぐではなく曲がりくねっていますし、形も真四角ではなく楕円形でカーブを描いています。
復古創新に取り組んでいますが、もともと私はこの復古創新をこの自然農の田んぼで行っていることに気づきます。現在、大規模農業で開いている田んぼは大きく大型の機械を使って耕していきます。昔では考えられない広さを一人と機械で耕していくのです。そして機械がつくりますから正確にキチンと仕上がります。
しかし昔の棚田のように大型機械が入ることが出来ない田んぼは人の手で丁寧に耕されていきます。人手が必要ですから家族総出、親戚や友人まで借り出してはみんなで一緒に田植えを行います。機械のようにはキチンと仕上がりませんが、独特の味わいを醸し出していきます。
この棚田を観るとき、私はこの棚田を単に古いものだとは感じません。むしろ人の手で丁寧に手入れされたこの棚田はとても美しく豊かに感じその姿容には新しさも覚えます。もちろん休耕田になって誰も手が入っていないものはただ古いだけです、しかしそこに手入れという人の手が入ることで新しい価値を今に創造するのです。
そして今、新たに古民家の手入れをはじめましたがこれも自然農と同じです。如何に初心を継続維持するか、実践し続けることが出来るか、そこに創造と革新があるように私は思います。
そもそも新しいとは何か、それは実践を続けることでいのちが吹きこまれ続けるということです。つまり新陳代謝のことです。呼吸のように、息ているものはいのちを躍動させていきます。いのちが活きているものは、常に活き活きと働き続けるのです。詩経にある「鳶飛魚躍」のように、持ち味を活かしそのものの性が自由に躍動し豊かさに満ちていくのです。
温故知新は如何に理念の実践を継続していくかが鍵です。そして実践を継続することができれば改善することも同時に進みますから継続こそが革新の要だということです。
理念を定めれば必ずその後に継続の実践道場は顕れます。人が志が試され練磨され、人格が陶冶され徳が高まっていきます。そして自然に道が拓かれていき、その道が子々孫々へと連綿と結ばれていくのです。引き続き、かんながらの道で出会う一つ一つの御縁を大切に実践により価値を再定義し直していきたいと思います。
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継続が一つの要というのは、これでいいのだという安心感に包まれます。時間は掛かりますがその分、気づきや発見は新たなよろこびになり、着実に自信へと昇華していることを感じます。そして自信は自分自身にいのちが宿ったことのようにさえ感じます。テクニックよりも心強い安心感を育て、日々の取り組みが次へと繋がるよう実践を積んでいきたいと思います。
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畑は少し放置し人手がなくなると、草茫々となって以前の気配はあっという間になくなってしまいます。しかし、草を取ったり耕したりするだけでは、元の畑に戻りません。やはり、野菜をつくってこその畑であり、季節季節の野菜を育て続けてこそ畑にいのちが戻るのでしょう。「人手が入る」ということは、そこに暮らしの一端があるということであり、改善は特別なことではなく、素直な実践のなかに自ずと含まれるものなのかもしれません。
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実践を継続していても、まだまだ深みを感じられていないものをありますが、何かの正解がある訳ではなく今観えているもので善しとして一歩ずつ歩んでいくプロセスの方を大事にしていきたいと思います。田植えの実践も今回で三度目となりますが、少しでも気づきを得て今年の稲作の実践に活かしていきたいと思います。
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今年もGWに長野の田んぼの田植えの準備を行ってきました。また自然農とは違った作り方とはいえ、お義父さんとお兄さんそして私たちだけで行う米作りは、結婚してから毎年毎年の絆のようなものを深めているように感じます。自宅での稲作も、今年はより自然に近い環境の中で行い、学んでいきたいと思います。