人は価値観というものを持っています。それはそれまでに育ってきた自分の境遇や環境によって左右されてきますが、価値があるかないかを決めるのもその人だとも言えます。
その価値観は時代によって左右され、ある時代では価値があったものがある時代ではまるでゴミやガラクタのような価値になっていくことがあります。人が生きていくということは価値観によってですがその自分の価値観がどうなっているのか時折確かめていかなければ時代の価値観だけに流されてしまうのかもしれません。
如何にどのものに対しても自分が新たな価値を見出すか、そしてその価値を自分が再定義するか、そこに時代時代の本質を守る鍵があるように私は思います。
例えば、田舎と都会ということがあります。田舎にも様々な楽しみがありますが、都会にも様々な楽しみがあります。しかし実際は田舎の価値は田舎の人の方が気づいていなかったり、都会の価値も都会の人が気づいていなかったりします。そこでの生活が当たり前になってしまえば価値があるかどうかも分からなくなっていくのです。
これと同様に価値というのは、当たり前になることで価値が失われていきます。如何に当たり前ではないことを自覚し、その当たり前ではないことを活かすかが価値の発見であり価値の再定義になるのです。当然、その当たり前を見破るその根本には感謝が基礎や基本になっています。
温故知新なども同じく、その当たり前であったことをもう一度確認してその上でそれが当たり前ではなかったことを知る。そのことで物事の本質に気づき、価値が新たに生み出されていくのです。ファッションの世界なども、同じく昔のものが時代を経て入れ替わりまたデザインされて順繰りと回転し続けているだけとも言えます。
時代時代で本質をちゃんと維持していく人は、その時代の価値を正しく見極め、そしてその価値を刷新して原点回帰をしてもう一度世の中にその価値を弘げていくことができます。
この「価値に気づかせる」という言葉は、「刷り込みを取り払う」ということと私は同じ意味だと信じています。それまでに当たり前だと思った常識を目から鱗がとれるように取り払ってみる。そして常識を壊して自分の発想を転換して新しい世界に気づかせる。そういうことこそが価値を発見し価値を再定義することだと私は思います。
人間は時代が変わっても実際にやっていくことは同じことですが、本質を維持する人と本質を忘れる人がいるだけの話のようにも思います。本質は考えるだけではなく、自然に触れて自然の本能を同時に磨く必要があるように思います。そしてそれができる人だけが、田舎であろうが都会であろうがどちらでも楽しむことができるのです。
伝統か革新かではなく、常に本質は価値の再発見と再定義です。古来からの魂を維持しながら今に柔軟に合わせていく、いにしえの道具を用いながら、最先端の道具も活かしていく、本当の革新が本来の伝統であるのだからその両輪の一致するところにこそ私は本質があると感じます。
引き続き、理念を優先しつつ実践を愉しんでいきたいと思います。
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確かに、「時代の価値観」に縛られていると、そのものの見方が本質的かどうかがわかりません。「時代の常識」に振り回されないためには、時代を超えた「長い目」で、その本質を見つめることが必要です。引き継いだものに「新たな価値」を見い出しながら今を生きているか?!自分の生き易さで都合よく見ていないか?! 先人と後の時代の人たちに笑われないような眼を持ちたいと思います。
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同じものを見ても感じ方はそれぞれありますが、その魅力を受け取る力と表現によっていつでも再定義が可能なのだと感じました。そのためにも当たり前と思わず、ある意味で疑い本当は何かということを追求していくことと、挑戦を大事にしていきたいと思います。
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昨夜、ある先生からお電話があり、アクティビティで行った視点の切り替えが早速役に立ちました。思えばいつも一円対話で隣の人のいいところを話していますが、これもその人の価値の再発見であり、再定義したその人はある場面で非常に頼もしい存在になります。古民家もただ自分の価値観で古い・脆い・不便と見ていれば、その本質はいつまでも観えてこないのだと思います。目に鱗がないと思い込んでいれば、それが取れることはありません。自分の価値観に縛られているかもしれない、刷り込まれているのかもしれない、と自分のものの観方を常に確認していきたいと思います。
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心を離さないという事についても、まだまだ自分の中に刷り込みがあり、日々自分と闘いながら学んでいる最中ですが、何事も挑戦するからこその再定義であり、停滞の中での再定義はなにか怖さがあります。挑戦することの怖さも停滞の怖さも初心と勇気で立ち返って行きたいと思います。