古民家の修理をしながら様々なものが修理可能につくられていることに気づきます。今の時代はすぐに何でも捨てて買換えですが、昔は貴重な材料と貴重な資源だからこそそのものをどこまでももったいなく大切に活かしていました。そこには確かな「暮らし」がありました。
そもそも日本人の暮らし方とは何か、古民家や先人たちの教えに耳を傾けているとそれは循環型の生活であることが自明します。自然が循環するように、自分たちもまた循環していこうと暮らし方を創意工夫して、革新し続けているとも言えます。
循環するからこそ温故知新が必要であり、循環するからこそイノベーションが求められるのです。そして循環すれば自ずから多様性、ダイバーシティもまた発揮されていきます。この循環とは暮らしの本質であり、その循環を取り容れることが自然を生活の中に取り込むことなのです。
現在、自然農や自然養鶏をはじめお米や様々な生き物たちと一緒に育っていますがこれもまた暮らしそのものです。自然のものと一緒一体に共に生きてゆくとき、私たちは循環型の暮らしになっていることに気づきます。
循環型の暮らしは、野生の本能を呼び覚ましいのちの本質が甦っていきます。よく世間では循環をエコのようにいいますが、私からすれば循環こそが野生です。野生のものをどう取り容れるかが循環に順応することであり、それができてはじめて人は暮らしを実現していくのです。
つまり循環型の暮らしとは自然一体、地球の全体の中の大切な役割を持つ一員として主体的に生きていくことです。
ここでの暮らしを考えた時に、如何に日本人の精神性を優先する生き方をしながら時代の最先端を取り容れ工夫していくかを思います。可能性が広がっていきますが本来の子ども第一義の理念に沿って子どもに譲れるものを遺していきたいと思います。
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子どもが憧れるような生き方は、やはり日々自分自身を振り返り暮らしを整えることなのだと感じます。その暮らしに日本の精神性と最先端が織り交ざった形が古民家というのは象徴的です。日々振り返り、明日の一歩に変えていきたいと思います。
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「循環」とは、「かたちを変えながら生き続けること」であり、すべては「大和」のなかにあるということでしょう。そして、「いのち」には、「その生きる方向がある」ということでもあるでしょう。その生き続ける「いのちの方向」を見極め、自分の都合で変えたり消し去ったりしないことが、本来の生き方なのかもしれません。「不増不減の世界」さえイメージできれば、発展の方向を間違わないのかもしれません。
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先日、ある土地を訪れましたが、古民家や水車や庭園など形の上では古きよき日本がありそうなものの、実際には水車は電動で動かされているなど、完全に人間都合の観光地となっていました。どんなに見た目を再現しても、そこにいる生きものの心がその場を創ってしまうことを感じ、改めて大切なものが何かを見つめ直しました。木々が揺れたり木漏れ日を感じて過ごすような、その何気ない時間を味わえる心の方を大事にしていきたいと思います。
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古民家ではありませんが、自転車のタイヤが擦り切れてしまった為に、修理をしようと調べながら挑戦してみました。全く初めてのことで、道具不足、パーツ不足、知識、技術不足でしたが、調べながらそれに気付いていくプロセスや、何がどう必要かを自転車屋さんに聞きに行くプロセスには面倒を超えた学びの意欲があり、すぐに買い換えたりせずに済む安堵感がありました。自転車屋さんでタイヤの交換を依頼すると、本体代金よりも高くなってしまう不思議な時代ですが、身の回りの道具を大切にする事は暮らしを大切にする事として、学んで行きたいと思います。