昔の古民家との対話について書きましたが、当主ということの意味やなぜ一家があるのかについても同時に深まってきています。そもそもその代の当主、特に初代当主ということが何を意味するか、それは家との対話を通してはじめて感じるものです。
家にはその家の持つ家風というものがあります。それは当主が何を大切にしてきたか、当主がどんな初心を持ったか、古民家の一つ一つをとって対話し深めていてもその家の主(あるじ)がどのような生き方をして何を大切にしてきたか、その生き様があちこちに遺っています。家との対話はその家の主との対話でもあります。その主がどのような人物であったか、その主が何を実践してきたか、それが家でもあります。それを代々守ることが当主の役割であり、代を重ねれば重ねるほどにその家の歴史が積み重ねられていきます。
そしてその当主と同じくする家人は、その当主の思想や生き様、生き方を通して自分たちも一家の一員としてそれぞれに大切に守るものを持ったり、それぞれに理念を優先してその家の歴史を清め、家格を盛り上げてきたとも言えます。その家の持つ風格や品格というものはその家に住む人たちが大切にしてきた思いの集積でもあるのです。そしてよく言われる「一家の恥」というのは、その当主や家人が代々大切にしてきた生き方や生き様、その連綿と続いてきた家人に対して恥ずかしいことをしたということです。それは道義に反した、言い換えれば「暮らしを壊した」ということです。老舗がなぜ老舗として何百年も続くのか、そこには暮らしが密接に関わっているのです。
当然その家に住ませていただけるというのは、感謝のままにその家の生き方を実践するということです。それをもって家の人になり、その家に住まうというのはその家を通して自分の人生を彩る場を得たとも言えます。そこで暮らす人々のことを家族といい、その家族の道が続いてきたことを家系とも言います。
一家の一員であるというのは、常にその家の主としてどう暮らすのかを示すことです。暮らし方が家の生き方ですから、日々の生活においてどのように暮らしたかを実践することが家人としての最大の務めでもあります。
カグヤではもっとも日本人らしい生き方、大和魂を実践しながら子ども達のために温故知新した新しい生き方と働き方を一致させようと試行錯誤しています。そのために一家にし、一家の主として当主となりました。しかしこの当主の重みは、ここで古民家を再生する中ではじめて深く感じ入っています。
「暮らし亡くして家はなく、家を亡くして暮らしもない。」そしてこの暮らしと家がないのに主があるわけがありません。当主というものはいかなる暮らしをする家を立てるか、その一点に全てが集中しその思想を宿していくのが最大の使命です。
家との対話は、暮らし方との対話、新宿でやっているこのカグヤの暮らしが何を意味しているか、改めて今回の機縁を通して見直していきたいと思います。
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古民家によって、家人として神家本家、法被や家紋の意味することがだんだんと深まってきます。点が線になっていく感覚はこれまでの実践を共に体験し対話してきたからなのだと感じます。一家をそして子どもたちや先生方を支えていけるよう、一員としての最大の務めを果たしていきたいと思います。
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「家、家にあらず。継ぐを以て家とす。人、人にあらず。知るを以て人とす」と『風姿花伝』(世阿弥)にあります。「継ぐべきもの」があり、「守るべきもの」がある。それを知って、その家を継ぐ覚悟をし、そこで暮らす覚悟をしてきた人たちによって、その家の歴史が続いてきたということでしょう。そういう歴史との対話を大切にしたいと思います。
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暮らし方が普段に出た昨日の避難。そして昼ごはんを食べながらの振り返り。普段の行動に生活は現れるからこそ、心が望む暮らし、心が躍る暮らし方を大切にして行きたいと思います。
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昨日訪問した園では私たちのベランダ稲作のように、小規模ながらも今年から稲作を始めていました。それ一つをとっても数年の実践の積み重ねがあり、お伝え出来ること、共感するものが多々ありました。何でお役に立てるのか、それは改めて形ある商品というよりもカグヤの生き方・働き方・暮らしなのだと実感します。一家としての実践の意味を改めて深めていきたいと思います。