熊本県下益城郡出身の日本の数学者に遠山啓氏がいます。この遠山啓氏の競争原理を超えるという理念を支柱にできたのが埼玉にある自由の森学園です。ここの子ども達の活動を見ていると随所にその理念が浸透し反映されている部分を知り、その根底には私にも同じ気持ちがあるのを実感します。
そもそも日本の教育は、だいぶ昔から変わっておらず時代の変化があっていてもまるでどこふく風のように「学校」という形にこだわっています。外から学校に入り不思議に思うのは学び方が知識偏重型の詰め込み教育スタイルをいつまでも維持していることです。
世界をはじめ、IT化が進み情報などはもう学校以外でほとんど入手する時代です。何のために学校にいくのかを再定義しなければそもそも子ども達も学校にいく意味を感じなくなるのは自明の理です。特に本質的であればあるほどに子どもたちは直感で学校学ぶことの価値に「?」を持つことだと思います。
この遠山啓氏は、だいぶ前にこのことを言及している言葉があります。
「学校教育そのものが、いま、絶対視されていて、唯一の教育機関みたいになっているけれども、客観的にみても、情報社会になってきて、学校以外からえられる情報がかくだんに多くなっている。だから学校の相対的な価値はもっとさがるべきではないでしょうか。」
私も同感で、学校だけが教育する場所ではなく人は学校以外のところで学ぶために学校があると私は思います。あくまで学校は、「場」を超えないのであってその場をどう活かすかは子どもたち自身だからです。世界では様々な新しい学校が産まれています、以前見学したシンガポールの学校やインドネシアのグリーンスクールなどもそうです。何のために学ぶのかという原点をはっきりしている学校が、新しい場を創造していくのです。
遠山氏はこう言います。
「創造ということは、がんらい、なみたいていのことではない。そのためには絶対に必要な条件がある。それは自由ということである。」(子どもの側にたつ)より
ここでの自由というものは、今の時代では多様性と言い換えてもいいかもしれません。つまり多様性を持つものだけが自由を手にしますから、自由を手にするためにも自分自身が主体的に世界を知り、歴史を知り、自然を学び、原点を掴み、いのちを生き切ることを遣り切る必要があるのです。自由というのは自然あるがまま(由)の合体した言葉です。如何に自然であるか、自然の中には無があり無の中には無限の創造性があります。そういうものを引き出すためにも自然一体の境地を学問によって学んでいく、その場を提供するのが学校本来の役割ではないかと私は思います。
それを壊すのにもっとも大きな影響を与えるのは「刷り込み」です。私たちは競争原理や序列主義の中で、差別され様々な自由を奪われてきたとも言えます。本来、いのちに序列や差別はありませんがそれをされることで深く心が傷ついてきたのです。すぐに他人のことを馬鹿にしたり出し抜いたり、それを見ているととても心が痛みます。かつての教育によって傷んだ気持ちをどう開放するか、私たちの取り組んでいる本業もその辺が深く関わっています。
そして遠山氏はこう言います。
「序列主義で骨がらみとなった教師は、いきづまると、いわゆる能力別指導に救いを求める。つまり、それは劣等生が優等生の邪魔をする、という考えになってくる」
能力主義というのは、序列主義から発生してくるものです。人を分別し、知識の有無と正確さで優劣をつける。しかしこれでは上下の縦の関係が強くなるばかりでいよいよ横同士の関係のない堅苦しい集団になります。今の時代はかつての上からの一方的な価値観では乗り越えられない時代です。多様な価値観が存在する社會があるのですから、そこは御互いに協力し合って衆知を集めて乗り越える時代です。しかしそれを超える方法も遠山氏は示しています。
「いまの教育というのは、テストの点数で子どもを優劣の順に序列化して一列縦隊になってしまっている。その序列の向きを90度変えれば、一列横隊になる」
如何に発想を転換するか、そこに自由の森の子ども達の活動の妙味があるように思います。子ども達の姿をみていたら、私が今、取り組んでいる子ども第一義の理念と同一であることに気づきます。如何に協働し、如何に自由であるか、その中には個々の尊重と持ち味を活かす仲間づくりをしていく場、衆智の活かし合いを重んじている感じがします。個々の自立は、仲間があってはじめて成り立つものですからその仲間づくりをどう体験するか、そこに自由を学ぶ意味があるように私は思います。
最後に、この遠山氏のこの言葉に私はとても共感します。
「おとなにはあまり期待がかけられない。まちがった教育でだめにされてしまっているからだ。しかし子どもにはまだ希望がつなげる。そのためには、いまのまちがった教育を変えて行かなければならない」
私はこの「まちがった教育」のことを「刷り込み」からの脱却であると定義しています。今まで教えられてきたことを一度疑ってみる、今まで常識だと思っていたことをいちど見直してみる、そういう中に刷り込みの脱却があります。
教育がまちがうというのは、本来の学びの価値が失われていくことです。自分で考えて自分で学ぶ、ゼロベースで考えることが出来る人こそが本物の教育者であると私は思います。
引き続き、御縁をいただける学びをすべて子どもたちのために活かし切っていけるよう精進して全てものから学びきっていきたいと思います。
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小学一年生の教科書を見ていると当時のことを何となく思い出します。担任が全教科を教えるスタイルは今思うと何でだろうと感じます。面白い先生の教科の点数が上がるのは偶然ではなく、むしろ学ぶ意欲を大事にしたら今後は変わってくるのかもしれません。自ら手を挙げ発表するタイプでなかった自分にとっては、担任は前に立っている人でクラスにいてもさほど話すこともなかったように思います。子どものために今動きながら、その自分自身がもしかしたら間違った教育をしているのではないか、このことを戒め精進していきたいと思います。
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「競争しよう」と思うのは、ときにいいエネルギーになりますが、それが「競争させられる」ことになると、途端に苦しみに変わります。優越感は劣等感の裏返しですから、勝っても負けても「比較される」限り、不幸の種になり苦しむことになります。「競わせて序列をつくる」という発想は、人を支配することに繋がっています。「優劣」をつけられることで競争させられている世界を抜け出し、魂のうずきを妨げられない「競争の原理を超える自由」というものを味わってみたいものです。
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学生時代の、興味もわかず楽しくもない知識を詰め込むだけの勉強をしてきたことは自分自身に間違った「努力」というものを植え付けてしまったように思います。興味がなくてもやり続ける、遣りたくなくても成し遂げる、心を従わせる、我慢・忍耐…そんな勘違いの努力は今でも時折顔を出すことがあります。興味があれば楽しければ自然と成長してしまうのは子ども大人も同じだと思うと、寧ろそちらに力を用いるのが本来の努力のように思います。努力というもの一つでも、その方向性を間違えないようにしたいと思います。
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清水さんが以前、今は教えることばかりで育てることを忘れていると仰っていました。その刷り込みは自分の中に色濃く残り、ただ素直に応援したり、一緒に取り組むことを怠り、指摘や指南、批判などの裁きの感情が先だってしまいます。一緒に育っていくということ、助け合い、応援しあうことを大切にして行きたいと思います。